ツールへの欲求をどうすれば自覚できるのか
自分ひとりでは辿り着けなかったところまで話が展開していくのが面白いです。考えを整理してもらったり、発展させてもらったり、他人と考えることの素晴らしさを感じます。
まず、私の前回の投稿について、倉下さんに強制的な不可視化と意志的な不可視化が自由を担保する、つまり、目に入らない状態を作って過去の影響から逃れることが自由の感覚に繋がるという話だという整理をしてもらいました(記事リンク)。
まとめていただいた通りなのですが、仮説として提示してもらったので、他の方がどうなのかが気になります。つまり、他の方がこの仮説に当てはまるのかどうかが気になります。不可視であればなんでもいいという人もいれば、強制的であることが重要な人もいるでしょうし、そもそも気にならないという人もいるかもしれません。いずれにせよ、皆さんはどうなのかについて伺いたいと思いました。私も引き続き、考えてみようと思います。
のらてつさんの投稿は、見えなくすること、あるいは何を見えるようにするかは、必要/不要の視点から捉えなければならない、そして、その必要/不要は個人の感覚によるので、個人の感覚を掘り下げなければいけないという話だと大雑把ですが理解しました。
今回は、このツールへの欲求の話をさらに考えてみます。
ツールへの欲求を自覚するまでにはいくつかのプロセスがあると思います。具体的には、(1)既存ツールを使うことで欲求(必要)を自覚する、(2)既存ツールを使い込むことで欲求が満たされる、同時に不満(不要)が自覚される、(3)その不満を解消するために行動するという流れがありそうです。
まずは、(1)既存ツールを使うことで欲求(必要)を自覚するプロセスがあると思います。このプロセスでは、ツールが示す使い方通りに使ってみることが大事でしょう。ツール側が導くままに使う経験をし、その経験によって「そうそう、私はこういうことがしたかった」と欲求を自覚します。気持ち的には自由を感じるかもしれません。
注目したいのは、多くの人はこの段階で初めて欲求を感じるのではないかということです。つまり、最初からツールへの欲求があるのではなく、使ってみて初めてツールへの欲求に気づくということです。欲求はあるかもしれないが、使ってみないと自覚はできないということです。
ツールに欲求を明らかにしてもらった上で、使い続けるとその欲求が満たされる経験をユーザーはします。つまり、(2)既存ツールを使い込むことによって欲求が満たされるはずです。
しかし、ツールを使い込むからこそ、不満にも気づいていきます。ツールへの欲求は満たされればされるほど、同時に満たされなくなっていくわけです。ツールを使い込むとツールへの解像度が上がり、その結果、細かな差異に気づくようになってしまい不満が生じるということです。気持ち的には自由が失われる感覚があるかもしれません。
そこで生まれた不満を解決するために、(3)その不要を解消するために行動します。具体的には、私たちは(a)既存ツールの使い方を工夫する、(b)新規ツールに移行する、(c)自作ツールを作るといった行動をとるはずです。
まとめると、ツールが示す使い方通りに使ってみる、使ってみるけれどうまくいかない、そのうまくいかなさを解消しようと試みるという流れがあるわけです。このプロセスの間には、倉下さんがおっしゃった、なぜうまくいかないかの仮説を立ててみることも重要になってくるでしょう。
倉下さんの投稿の中のworkflowyを使った実践例は、既存ツールの使い方を工夫するという方法です。強制的な不可視化を実現できないという不満に対して、ツールを変えずとも工夫によって不満を限りなく解消しようとする例です。
欲求はあるもののツールを自作できないとき、欲求に適合するツールが何かの事情で使えなくなったとしても、こうした工夫をすればいいのでしょう。それは創造的だし、楽しいことだと思います。
私は自作ツールを作る能力もモチベーションも今のところないので、(a)か(b)の選択をすることになります。過去は(b)を選択することが多かったですが、今は(a)を選ぶことが多くなってきました。
おそらくツールをたくさん使うことで欲求を自覚しやすくなり、自分の欲求を満たすであろうツールを選べるようになったことと、不満が生じたときに工夫ができるようになってきたからでしょう。そして、この工夫は自由に使うことと関連するものではないでしょうか。
話は少しずれますが、倉下さんがworkflowyの運用システムをIDBシステム(のちにincシステムに改名)と名付けていますが、こうした名付けは自分の欲求を明らかにすることに繋がりそうです。名付けというのは、対象とするものの理解したうえで、「ユーモア」を発揮しなければいいけないので難易度は高いですが、少しずつチャレンジしてみたいと思いました。