以下の記事を読みました。
いいですね。なんとなく「議論が深まっている」感じがします。場が持つ力もちょっと感じます。
で、本題。
上の記事では「定期的なリセット」と「見えなくすること」の二つの観点が提示されていました。興味深く思ったのは、LogseqはOKで、WorkflowyはあんまりOKじゃない、という感覚です。
考察されている通り、Logseq(やRoam Research)では、デイリーページが自動的に更新されます。ユーザー側の操作はいりません。単にアプリケーションにアクセスしたらそれで新しいページ(その日のページ)が生成されるようになっています。
この感覚は、アナログのリーガルパッドでデイリータスクリストを作っているのにそっくりです。新しい一日と共に、新しいページが迎え入れてくれる。非常に嬉しい感覚です。
で、そこにある「新しい」という感覚は、非連続的なもの、あるいは連続的ではあるが非継続的なものでしょう。昨日以前は昨日以前として、今日は今日なりに使っていくぞ、という感覚が担保されているのです。
たすくまのようなタスクシュート系ツールの場合、デイリー形式は同様でも、そうした「新しさ」は生まれづらいでしょう。なぜなら、タスクシュートは「リピートタスク」を重視するからです。新しい一日が始まったら、その一日の大分部はすでにリピートタスクで埋められます(最初は違っても、使っていくうちにそうなっていきます)。ここには、明確な連続感があるでしょう。なにせ、もうタスクたちはすでに入力され、私の目に入るからです。
このことは、おそらくLogseqやRoam Researchにおいても、みっちりしたテンプレートを利用する場合は連続感が出てしまう点からも論証できると思います。私自身、ある程度ツールに慣れてくると、毎回入力する項目をテンプレート化して自動挿入されるようにすることが多いのですが(ライフハッカーのさがでしょう)、そうしてテンプレート化してしばらくすると、嫌気が募り出し、だんだん使わなくなってしまいます。過去の自分に制約されている感覚が強まるからでしょう。
そうした経験の反省から、最近の私は毎日の作業記録ファイルをごくごく最低限の要素だけ(行数にして2行分だけ)をテンプレート化するに留めています。それ以外は、毎日せこせこ手で入力しているのですが、おかげで問題なく継続できています(愚者は愚者なりに経験から学んでいるわけです)。
おそらくtksさんが、Workflowyとうまく付き合えない点も同様でしょう。Workflowyは作った構造がそこに残ってしまいます。ある日何かを入力し、次の日にWorkflowyを開いたら、前日の構造がそこにあって、目に飛び込んでくるのです。それと同じことが、明日も明後日も続いてくのですから、堪え難い人にとってはたしかに辛いものがあるでしょう。
私の場合は、毎日新しいものが生成される作業記録用のテキストファイルと、固定的情報を扱うWorkflowyという使い分けなので、特に問題なく扱えています。もちろん、そのWorkflowyをどう扱えばいいのかという違った問題が喚起されるわけですが、ここで考えたいのは別のことです。
Workflowyだって、「毎日新しいページ」を生成すること自体は可能です。たとえばHome直下に「past」という項目を作り、一日が終わるたびにすべての項目をそのpast直下に移動させれば、まるっきり新しいページ(のようなもの)が現出するでしょう。実際に新しいページかどうかはここでは重要ではなく、そのように「見える」ことが肝心です。別の言い方をすれば、過去の構造が目に入らなくなることが大切なのです。で、そういう操作自体はWorkFlowyでもまったく問題なく行えます。
しかし、tksさんがおっしゃるようにこれは強制的ではありません。むしろ、意図的な操作が必要です。
となると、「定期的なリセット」と表現されていたものは、おそらく「定期的な強制性のあるリセット」ということなのでしょう。あるいは「リセット」という表現自体にそうした強制性のニュアンスが込められているのかもしれません。
で、この「リセット」はWorkflowyのpast項目の運用からもわかるように、消すことではなく、見えなくなることで十分効果を発揮します。そうなると、「定期的なリセット」と「見えなくすること」は、どちらも視界から消えるという点では共通項があるのではないか、と考えることができるでしょう。違いは、強制的か意志的かという点です。
まとめると、「定期的なリセット」は強制的な不可視化で、「見えなくすること」は意志的な不可視化だという、新しい定式化の仮説が立ちます。その二つが、人が道具を使う「自由」を担保してくれるのではないか、という話ですね。
実際、それくらい「見えること(あるいは見えないこと)」は、動作を行う人間にとって強い影響を持つのだということは、『人を賢くする道具』を読む中でもさんざん確認してきました。
過去に作ったものが目に入るだけで、私たちは影響を受けてしまう。だから、強制的あるいは意志的な操作によって、目に入らない状態を作ることで、私たちは「過去」の影響から逃れ、それが「自由」の感覚を担保してくれるのだ、という話ができそうな気がします。