「つぶやき」の隠れ蓑
Twitterをはじめてそろそろ1か月半になる。
はじめは使い方がよく分からなかった。
はじめてのツイートで、ごりゅごさんやぷーおんさん、よしのんさんのことにふれて、それぞれのアカウント名を@つきで書いたらメンションになってしまった。いきなりやらかしてしまってとても焦ったことを覚えている。(その説は大変失礼しました。)
今はもうだいたいの使い方はわかる。リツイートもお手の物になった。「つぶやく」ことだってできるし、スペースだって聴いた。
Twitterは不思議なツールだと思う。本来「つぶやく」場であったはずが、コミュニケーションツールにもなっている。毎日とてもたくさんの方が、「つぶやき」をしたり、コミュニケーションをとっていたりする。
自分でも混乱しそうだったので、「敬体(です・ます)」と「常体(だ・である)」で「コミュニケーション」と「つぶやき」を使い分けることにした。
敬体は、相手がいることを意識しているときに使う。コミュニケーションツールとしてのTwitter。
常体は、「つぶやき」。誰からでも見える状態にはなっているものの、特に宛先はない。
ここまで読んでくださった方には申し訳ないが、この投稿は大部分を常体にしている。つまり常体の部分は、長めの「つぶやき」として書いている。宛先はない。
なお、私の数少ないスペース体験のひとつである吉川浩満さんのスペースは『哲学の門前』発売記念イベントだった。『哲学の門前』は、とても刺激的で、でも優しくて、おもしろかった。色んな方に読まれて欲しい。
あえて、本投稿に関連することにだけふれるならば、スペースの中で「敬体」「常体」の使い分けについて質疑があって興味深かった。(当たり前だが、私などが言っている「敬体」「常体」の使い分けとは次元が違うのだが。)
閑話休題。
「のらてつさんのツール作成日誌の感想」の投稿を読んだ。
感想の一文一文とても丁寧に言葉を編まれていて感動したのだが、読後もっとも心に残ったのは「そのお礼もかねて、勇気をだして、具体的な感想をかいてみました。」の一文だった。
私も感想を書くのには、勇気がいると思っている。これは私が文章を書くのが苦手だからだ。……と思っていた。文章がとてもすてきなGoFujitaさんでもそう思うのだとすると、他にも理由があるのもしれない。
いくつか思い当たるものがあったが、ひとつ根が深いものがある。これはGoFujitaさんには当てはまらないと思う。あくまで私が「感想を書くのに勇気が必要」と感じる理由だ。
それは「何が言いたいのか分からない」ものにならないか、というおそれだ。過去に「何が言いたいのか分からない」と言われたことが影響していると思う。正確な時期は覚えていないが、気が付けばずっと文章を書くことに苦手意識があった。おぼろげな記憶をたどると、小学校の作文からはじまり、それから異なる人に複数回同じことを言われたような気がするので、正しい意見だったのだろう。
書いたものが、「何が言いたいのか分からない」ものになる可能性がある。「何が言いたいのか分からない」ものの宛先にされたら、その方は困ってしまうだろう。返事を書こうにも「何が言いたいのか分からない」のだから。
なので、感想を書くのは、宛先のある文章を書くのは、私にはとても勇気がいる。そういうわけで、この投稿は大部分を「つぶやき」とした。宛先はないので、当然返事は必要ない。
これは相手をおもんぱかっているようで、そうではない。誰かに「何が言いたいのか分からない」と言われても、「これは『つぶやき』です。」と自分を守っているだけである。
トンネルChannelは対話の場なので、もしかしたら「つぶやき」を投稿するのは避けた方が良いのかもしれない。
だが、ここは倉下さんの「変なことをしよう」を盾に、1回くらいは許してもらおうと思う。
ブログはすごい方たちのものというイメージがずっとある。それは今でも変わらないのだけど、長めの「つぶやき」を書くためだけの場としてなら、はじめてみてもいいかもしれない。
そんなことを考えた日曜日の午後でした。
おわりに
倉下さんの「『日本語からの哲学: なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』(平尾昌宏) – Honkure」の記事を読んですぐに同書籍を注文した。まだ受け取ってはいないが、この先何か影響を受けたら「敬体」「常体」の捉え方も変化するかもしれない。

