変なことをしよう
このトンネルChannelは、試験的な試みです。でもって、試験的な試みに必要なのは「変なこと」です。普通ではないこと。チャレンジングなこと。
「普通」なことをするならば、試験的な試みを行う必要などないでしょう。ちょっと試してみる、ちょっと楽しんでみる。それくらいの心持ちで投稿してもらえるとイイ感じになるかと思います。
なにせ、この時点では誰も結論など持ち合わせていません。当然、行為を判定するための審級も曖昧模糊としたままです。何がうまく機能し、何がうまく機能しないのかを確かめることが「試験的な試み」の最大の目的となります。
ときどき、「自分の意見なんて意味がない」という意見を見かけますが(不思議な構造ですね)、個人的にその意見は二つの側面から言って反対です。
まず一つは「価値とは見出されるもの」であること。あなた自身が意見に価値を見出してなくても、他の人がそれに価値を見出すかもしれない。その可能性を念頭におけば、発信する前に無価値だと断定するのはやや早計でしょう。
でもって、もう一つが、意見の価値は全人格的な影響を受けない、というものです。たとえば、著名な経済学者であっても、倫理的な考えは非常に幼いかもしれません。だとすれば、経済学における意見は有用でも、倫理に関する意見は有用ではない、ということがありえます。
世の中には「誰が言ったかよりも、何を言ったか」という警句がありますが、そうはいっても「誰が言ったか」を完全に無視することは危ういでしょう。でもそれは、発言者の権威がその有用性を担保する、ということではなく、発言者の属性や経験によって、その重みづけが変わってくる、という話です。
で、知的生産ツールやその技術について。
そういうことにまるで関心がなく、実践したことがない人の意見なら、有用性はそう高くないでしょう。
一方で、実際にそれをやってきている人であればどうでしょうか。自分で実践し、それについて考えるということを一定程度行ってきた人の意見であれば?
世の中を見回してみたとして、そういうことに興味を持つ人は一億人中の何人くらいいるでしょうか。ほとんど大半の人は、きっと興味を持たないでしょう。だとすれば、実践している人の意見は、それだけで総体的な価値の源泉を持つことになります。
意見の価値には、「著名度」はさほど影響しません。もちろん、著名度が低いからといって有用とも言えません。それぞれにたくさんの意見があって、それを読んだ人がその価値をそれぞれに決めるだけです。
だから変なことをしましょう。変なことでいいのではなく、変なことがいいのです。
「一般的」なことはマスメディアに任せるとして、私たちは個人的で変な話をしていきましょう。