以前の投稿の続きです。
今回は「オブジェクト」について。
tksさんが以下の投稿をしてくださいました。
でもって、のらてつさんの以下の記事もあります。
◇Noratetsu House: Capacitiesでは扱わないでいること
理由としては、そのようなアイデアは自分がオブジェクトと思えるほど質量を伴わないからです。「あれ」と指し示せるものになっていないということです。
Capacitiesの登場で急激にその存在感を増してきた「オブジェクト」。これは一体何なのでしょうか。
オブジェクト
英語のObjectは「物体、対象、目的、目標、目的語」で、Subjectと対比されます。加えて、プログラミング言語では固有の意味を持っています。オブジェクト指向などでググってみるといろいろ出てくるでしょう。
しかし、いったんそういう難しい話は脇に置いておき、率直かつ感覚的に考えていきます。
私たち人間は世界を知覚・認識しながら生きているわけですが、その内実はどうなっているでしょうか。たぶん、いろいろな「物」が主要な構成要素になっているのではないでしょうか。
たとえば、今私はノートパソコンを操作していますし、そのパソコンは机の上に乗っています。なんてことのない認識ですが、ここに「オブジェクト」の手がかりがたしかにあります。
たとえば、ノートパソコンは「机」ではありません。それを操作している私の「手」でもありません。他と物と明確な境界線を持った存在です。
また、ノートパソコンを知覚するとき、そこについているキーボードのスイッチやディスプレイやその他の部品を個別に認識することは稀です。より強く注意を向ければ個別のものとして認識できますが、たいていは「ノートパソコンの一部」という感覚で捉えるでしょう。
このように「物」は、その内側にあるものを含めて一つとして捉える機能があります。というか「内側」という観念が立ち上がっている時点ですでに境界線が働いているわけです。
つまり物=オブジェクトは、私たちの認識の「単位」になっているものです。
当たり前ですが、私はノートパソコンを目にして「うわ〜、いっぱいのFe原子があるな〜」などとは思いません。それらを構成する元素・素材・部品をひとまとめにして「ノートパソコン」だと認識するのです。
その「ひとまとめ=塊」は同時に、それではない物との境界線としても機能します。つまりノートパソコンであるならば、それは机ではないし、猫ではない。そういう認識=感じ方があるのです。きわめて排他的な機能です。
もちろん、生まれてこの方機械的なものを目にしたことがない人であればそれを「ノートパソコン」だとは認識しないでしょう。たとえば机とセットになった大きな物体だと認識することもありえます。その意味で、この認識は構築的なもの(文化的なもの)を含んでいます。もちろん、生物特性に由来する認識もあるでしょうが、生まれてから得てきた経験によって、見出せる「物」に違いが生まれることは容易に想像できます。
だんだん話が込み入ってきたので、いったんまとめましょう。
私たちは世界を「物」の集まりで捉える。もちろん「物」以外の要素も含まれているが、結構な割合で「物」が認識には入っている。
その物は、内側に対しては集合的であり、外側に対しては排他的で、さらに類型を持つ。「ノートパソコン」という呼び方は、個別の名指しではなく、あるカテゴリ(類型についての観念)の呼称である。
そうした「自分の認識」をベースに、「自分の情報整理」を行うこと。
これがオブジェクト型ノートツールの基本的なコンセプトであるように思います。でもってそれは私たちの世界認識を情報処理の単位にするという発想です。
リンクベースのデジタルツールでは、私たちの「連想」という脳の働きをベースにすることができます。これはこれで素晴らしいことであり、それは階層構造を拒否するという意味でポストモダンな情報整理だと言えるでしょう。
一方で、脳の働きに注目するならば、私たちは世界を類型的な物の集まりとして捉えているという観点も見逃せません。それらは、決して階層構造ではないものの──私はノートパソコンを見て、情報端末>個人向け>アップル製品>10万円台>MBA、といった階層的分類を想起することはないです──明確な境界線を持った類型を構成しています。
面白いのは、「ノートパソコン」をカテゴライズしようと思えば、多義的にならざるを得ない──パソコン製品であり、仕事道具であり、モバイルグッズでもある──のに対して、「ノートブック」そのものは先ほども書いたように完全に排他的だという点です。「ノートブック」として認識した時点で、それは「机でも手でもウォーターサーバーでもないもの」として定着しています。
もちろん、先ほども述べたように世界認識には「物」ではないものもあり、そうしたものはここまで明瞭な境界線を持っていません。それらは曖昧で多義的であるでしょうし、それに向いた情報の扱い方はあるように思います。だからといって、すべての情報整理をそうしたものに合わせなければならないというルールはありません。実践的運用はもっと緩やかに行われるべきでしょう。
もう一つ言うと、オブジェクトは「それ以上分割ができないもの」ではありません。ノートパソコンとキーボードのように注意の対象を変えればより細かいものはいくらでも見出せます。その意味で、オブジェクトはアトミックではありません。あくまで、通常の自分の認識において「単位」として機能しているというだけです。
というところで、オブジェクトについて考えていることを少し書いてみました。これに加えて、オブジェクトの認識はその人の経験に依存するのでそれをつかった情報整理は個別に立ち上げるしかない、という点と、異なるオブジェクトは「異なるもの」として認識されているのでUIやビューもそれに合わせて設計される必要がある、という点が深められると思います。