知的生産に興味がある人のエッセイが読みたい
知的生産に興味がある人のエッセイが読みたいという主旨のツイートをしました。
これまでエッセイを好んで読んできたという人生でもないので、エッセイが何たるかや、面白いエッセイ/面白くないエッセイといったことは何も知らないのですが、トンネルChannelの色んな人の投稿を読んでいて、自分は文章を読んでいるときにその人のその人らしさやその人の人生が垣間見える瞬間に触れるのがとても好きだということに最近気づきました。えむおーさんの気づけば仲良くなくなってしまった友達の話 やtasuさんの自作ゲームの話とか、他にも色んな人の文章を読んでいるとたまらない気持ちになります(もちろん良い意味です)。
これまでも朝井リョウ、米澤穂信といった好きな小説家のエッセイはいくつか読んできました。夢中にさせてくれる作品を書いた人がどんなことに関心があって、普段はどんな生活を送っているのかが垣間見えるのがとても好きです。
テレビでしか見たことがない芸能人の書いた雑誌に載っているエッセイをたまに読むのも好きです。「へー、意外とちゃんとした考えを持っている人なんだー(失礼)」と読み終えたあとにその人への印象が変わるがいいです。
もともとラジオやポッドキャストを聴くのが好きなのですが、話しているのを聴くとその人の声や話し方から滲み出る人柄がわかる感じが好きです。それと、あらかじめ内容が決まっているメインのコーナーより、近況を話すオープニングトークの方を楽しんでいることがあります。
最近は、知的生産やタスク管理に興味がある人が、どんな生活をしているのかとか、何があってそういう考えを持つに至ったのかといったことに興味があります。なので、単にエッセイを読みたいというより、知的生産やタスク管理に興味がある人のエッセイを読みたいという気持ちがあります。
自分のツイートには、エッセイという表現自体に可能性を感じるというニュアンスも一応あったのですが、Tak.さんがまさにそれというツイートをしていました。
このツイートを見たときに千葉雅也さんの『アメリカ紀行』が思い浮かびました。あの本はすごい不思議な本で、単純に旅行記としても面白いし、千葉さんの考え方やその考えに至った出来事や経緯もわかるし、あの形でしか出せない良さがあります。
ある形でしか伝えることができないということは、小説や映画が、小説や映画という表現の形でないと意味がないということと近い気がします。例えば、小説家(映画監督)に対してインタビュアーが、「この小説(映画)で言いたいこと、伝えたいメッセージはなんですか?」という質問をぶつけたとしたら、小説家(映画監督)は「そんなことが一言でパッと言えるなら最初から小説なんか書いてない(映画なんか撮っていない)」となるはずです。要するに、小説(映画)という形でしか表現できないものがあるから、あの形で表現しているわけです。
エッセイも同じだと思います。エッセイの形式だからこそ、伝わるものがあるのでしょう。構成や論旨がまとまっていない感じ(本当は考えた末での文章なのでしょうが)、無駄が多く含まれている感じ、その人ならではの空気感を表現する感じがエッセイの良さで、それはエッセイという形式でなければいけないのだと思います。
もしエッセイを要約しようとしたら、ほとんどの表現が省略されてしまうはずです。とすると、一見ノウハウを伝えるのには向いていないように見えます。けれど、実は要約されるときに省略されてしまうものこそ、ノウハウを伝えようとするときに必要なことは多いのだと思います。ノウハウ本を読んでもうまくいかない原因のひとつは、この部分が省略されてしまっているからかもしれません。