子どもの頃、ゲームを自作するのが好きでした。
ゲームといっても、無地のノート(分厚め)に、手書きでマップを用意したり、設定などを書いたりするだけのものです。(記事のタイトルからはソフトウェア開発を想起させてしまうので、「ゲームを自作する」はミスリードですね。ただ、当時の感覚としては、やはり「ゲームを自作する」ことをしていました。)
作る内容も節操がなく、その時はまっているテレビゲームの影響を強く受けていました。RPGで、初めて「飛空艇」なるものを知った後は、すぐに自作のゲームにも「飛空艇」がでてきました。「大きめのゴリラと小さめのサルが、バナナを集めながら、タルの大砲に飛び込むアクションゲーム」に入れ込んでいる時は、同じようなアクションゲームをノートに書きました。
はじめは、わが家の「テレビゲームは週に2時間まで」ルールに抗うために、自分で作ることを考えたような気がします。たまたま、無地の分厚いノートが家においてあるのを見つけたから、というのもあったと思います。
年の離れた兄が喜んでプレイしてくれるのが嬉しかったので、どんどん新しいゲームを作りました。「兄が待っているので、早く新作を用意せねば」などと考えたりもしました。今思えば、兄は「私が作ったゲーム」ではなく、「何だかよく分からないけど、すごく楽しそうにしている弟」を楽しんでいたような気もします。
「『ゴリラのアクションゲーム』に多大なる影響を受けた自作のゲーム」の説明書には、本家にはない「特殊な効果のタル」や、「お助け動物の新キャラ」などを登場させました。なぜか説明書の操作説明のページに描いた「スーパーファミコンのコントローラー」は、本物よりもボタンが2、3個増えていました。はじめは、テレビゲームの代替でしたが、いつしか作ること、新しい設定を考えることの方を楽しんでいました。
「ゲームを自作する」ことを止めた理由は覚えていません。兄が大きくなり忙しくなったからかもしれませんし、テレビゲームに3Dのものが増え、私の想像力ではノートの不足を補えなくなったからかもしれません。もしくは、たまたま無地のノートを切らしている時に、何か他の興味を引くことができたのかもしれません。
いずれにせよ、私はいつからか、何かを作ることはしなくなりました。
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人を消費する側、作る側で分けると、私は消費する側の人間です。誰かが生み出したものを享受してばかりいます。(大人になってからあまりしなくなりましたが)ゲームは開発者の想定したレールのとおりに進め、本やWEB上の情報は漫然と受け取るだけで、何も生み出しません。
研究者や、実用書/小説を書かれる方、漫画/イラストを描かれる方、作曲される方、ブログなどの場で表現されている方…に、憧れのような感情を抱いています。それで生計を立てているか否かは関係ありません。おそらく、何かを生み出している様が、自分にはなく、とても輝いてみえるからだと思います。
私にとっての「何者か」は、「何かを生み出すことのできる人」なのかな、と思います。
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子どもの頃、ゲームを自作するのが好きでした。
今は、誰かのために何かを作ることはありません。
そんな私でも、趣味でプログラミングをした時には、何かを作った気になれることに気が付きました。(誰のためでもないけれど、)自分のために、「消費するだけの私」が何かを生み出した気になれる。一連の投稿から、「プログラミングによってちょっとだけ『何者』になれる感覚をもらえていること」に気が付くことができました。
ありがとうございます。
終わりに
皆さんのプログラミングの話と「何者」の話に熱くなって、ついつい夜中に書いてしまいました。(「投稿」ボタンを押す直前にメーリングリストであることを思い出し、なんとか深夜2時にメールを飛ばさずにすみました。)
投稿拝読して、tksさんのらてつさんと、私も同世代であることが分かりました。一連のお話は共感する点も多く、「世代により形成されている価値観があるのでは説」はなるほどなぁと思いました。(特にtksさんの「もともとネットで発信はしてこなかったのですが、…」の段落はもうまったく同じで「おま俺」くらいのシンクロ率を(勝手に)感じてしまいました。)
tksさんの文章がすばらしくて、これはもう「何者」じゃないか!と思いました。
また、元々一方的に存じ上げていて(確か初めてお見かけしたのはnoteのObsidian記事だったかと思います。)、私にとっての「何者」であるのらてつさんが「何者にはいつかなれるだろう(≒今は何者ではない)」という話をされているのは、少し不思議な感覚に陥りました。
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自身で「何者ではない」と思うことと、人から「あの人は何者だ!」と思われることには、小さくない乖離があるように感じます。
これは、倉下さんが、「変なことをしよう」で書かれていた「価値は見出されるもの」とも関連する話かと思います。
まず一つは「価値とは見出されるもの」であること。あなた自身が意見に価値を見出してなくても、他の人がそれに価値を見出すかもしれない。その可能性を念頭におけば、発信する前に無価値だと断定するのはやや早計でしょう。
だとすると、他者から「何者と思われないこと」について思い悩んでも、問題の解決とはならないのでは、とも思います。人によって「何者観」が異なるからです。(tksさんやのらてつさんが思い悩んでいるとは思っておりません。念のため。)
また、自身で「何者ではない」と考えてしまうことに対しては、それぞれの「何者観」によって、とるべき行動が変わるように思います。
私の場合は、(誰かのために作る技術がなくても、)「自分のために」ちょっとしたプログラムを書くことが、「何かを生み出せた(=少しだけ何者になれた)」気にさせてくれるようです。
もしかしたら、トンネルChannelに書くことも、ちょっとした何かを生み出せたと思っても良いのかもしれません。ここは、「自分のため」に書いた文章であっても、皆さんに送ることを許してくれる稀有な場であると思います。あくまで「自分のため」の文章であっても、誰かにほんの少しでも影響を与えることができたなら、それはとても幸せなことであるように思います。
私も前半部分のお話をとても面白く感じて何周か読み返しました。なんと表現したらいいのかわからなかったのですが、tksさんのご感想に「それ!」という気持ちでいます。
>はじめは、わが家の「テレビゲームは週に2時間まで」ルールに抗うために、自分で作ることを考えたような気がします。
ここに工夫と熱意の源がありますね。「抗って、自分で何かをする」というのは年を重ねるほど対象が高度で困難なものになり、その結果自分のパワーを感じられなくなっていくのかもしれないと思いました。
>私にとっての「何者」であるのらてつさん
なんと、ありがとうございます。しかもnoteからということに大変驚きました。
tksさんのご感想と自分自身のことも併せて考えてみた時、「何者かになりたい」という思いには前提として「生み出す人間でありたい」という願いがあるのかもと思いました。たとえ仕事がうまくいっていても、それが欠けているときっと満足できないタイプなのだろうと。
そういう意味で「何者か」を考えるというのは、「何者かになりたい」と願っている人の中で多数派かどうかはわかりません。サンプルが僅かではありますが、同じ世代だとわかっているお二人と感覚がごく近く、一方巷に溢れる「何者とは」の語りに必ずしも共感できないことを考えると、もしかしたら世代によって「何者」像が随分違っているのかも、ということも思いました。
前半部分のゲームの話、語彙力がなくて申し訳ないのですが、「なんかエモくてめちゃくちゃいい」と思いました。
こういう個人的な話こそ読みたいと思わされます。
何者とは何かを生み出すことができる人というのは個人的にはかなりしっくりきました。
私も消費する側だという自己認識があって、「何かを生み出すことができる人」に憧れがあるので。
最後に、私の投稿のきっかけの一つとしてtasuさんの文章は影響していることをお伝えしておきます。