皆さんの語りに引き込まれて、Evernoteの思い出が呼び起されました。タイトル含めて、めちゃめちゃ影響を受けています。自分語りが98%程度を占める予定ですので、それでも良いよ、という方だけご覧いただけますと幸いです。(書き終えた後、改めて読み返したところ、どうしてもセンシティブな内容を除けなかったため、その点もご注意ください。)
出会い
20代の当時、私はとある理工学部の研究室に所属していました。
活気のある研究室では、現役ばりばりの研究者である助手(助教授)の方をリーダーにして、その研究を補佐することで実践的な方法論を学ぶようです。
私の研究室の先生(教授)は定年間近でした。昔は多数の助手を抱えていたようですが、皆さん准教授となり、ご自身の研究室を持たれて巣立たれたとのことでした。
会社勤めをしたことのある方ならイメージが沸くかもしれませんが、創業者でありキャリア40~50年の会長がいるのに、課長も部長もいない、なんなら入社数年の若手しかいない組織です。先生(教授)から大所高所に立った示唆に富む意見は貰えるものの、実際の進め方は手探りで学んでいく状況でした。
そんな中、博士課程の先輩から、Evernoteを使って論文共有しないか、と声をかけられました。研究テーマが近かったこともあり、調査した論文をEvernoteで共有しようといった提案だったかと思います。
当時Evernote、クラウドという単語を初めて知り感動した私は、二つ返事で頷きました。
今であればzoteroを使うようなことをEvernoteでやっていました。おそらく当時であっても、存在を知っていればzoteroは使えたのではないかと思います。先輩も含めて、それくらい致命的に方法論に無知だったのです。
研究とは関係なくEvernoteについて調べる中で、色々な発信者の方を(勝手に)ウォッチするようになりました。ライフハックの名のもとに、様々な工夫を探求されている様に、研究と近いものを感じた記憶があります。これらの発信をされている方々にも、勝手に憧れのような感情をいただいていました。
Evernoteは、最初は先行研究調査で集めた論文を共有する場でした。DeepLもなかった頃なので、各人がちょこちょこと調べた英単語等を書き込むようになりました。だんだんとそこで議論めいたものも始まるようになりました。Evernoteから始まり、急きょ研究室に集まり、そのまま明け方まで議論するような日もありました。運よく国際会議で発表する機会を手にした時はその資料、学術雑誌掲載のチャンスをいただけた時にも、その資料や査読者コメントを記載する場にもなりました。
傍から見ても私の研究生活は順調だったように思います。私は研究者として生きていくことを考えていました。
そんなある日、先輩が自ら命を絶ったという連絡が来ました。
親しかった私は理由を聞かれましたが、まったく見当がつきませんでした。その時初めて、研究以外の先輩について、人となりについて、何も知らなかったことに気が付きました。
やがてどこからか、論文のリジェクト数が原因ではないか、といった憶測が流れてきました。先輩の人となりについて何も知らなかった私は、反論ができませんでした。
それから少しして、私は研究をやめました。現在は「研究の経験を活かした」という名目の、とある専門職として会社勤めをしています。会社では、ミスの許されない計算を化石のように古い理論で実装しています。
この選択に、先輩がいなくなったことがどれだけ関係していたのかは分かりません。研究を続けるなら、個人としての能力が重要であると考えているからです。1人でもやる人はやる世界です。
ただ、初めて身近な人がいなくなり、自分が研究の世界に身を置くことが恐ろしくなったのだと思います。「未知のものを探求していく喜び」と「安心」を天秤にかけて、傾いた方を選びました。
収入はほどほどに安定していますし、結婚して子宝にも恵まれました。先行きが不安なこともありますが、一般的な企業人が抱くようなものです。仕事内容も、この道に決めた時の想定から外れておらず、後悔はしていません。
それでも、こちらの道を選択したことは、私という人間に大きな爪痕を残しました。
就職先では、規程によりEvernoteは使えませんでした。元々私生活ではEvernoteを使っていなかったので、企業に属してからはEvernoteを使わなくなりました。私のEvernoteは研究室にいた頃のままです。
私にとってのEvernoteは「かつての憧れ」であり「挫折の象徴」です。
おわりに
はじめてパブリックな場に自分語りもりもりな内容を投稿しました。
このような場をつくってくださった倉下さんをはじめ、投稿者の皆様、温かく見守っている購読者の皆様に感謝をいたします。
最後に自分語り以外の2%の話をしたいと思います。私のような者の思想に価値はないのでは、とも思うのですが、こんな記事をここまで読んでくださった寛容な方なら許してくださるのではないか、とも思うのです。
私にとってのEvernoteは「かつての憧れ」であり「挫折の象徴」です。
しかしです。
仮にEvernoteとまったく同じ機能をもったツールが新しくリリースされたとしても、私がかつてEvernoteに抱いた憧れや挫折の感情を、そのツールから抱くことはありません。
「個人」と情報整理ツールの関係は、「その人がそのツールと歩んだ歴史」と、不可分であるように思います。
「個人」としての情報整理ツールの語りから、「その人がそのツールと歩んだ歴史」を切断した解釈を試みることで、普遍的な何かが見えてくるのか、
はたまた、
「個人」としての情報整理ツールの語りから、「その人がそのツールと歩んだ歴史」も含めて、多数並べて紡いでみることで、普遍的な何かが見えてくるのか。
そのどちらであっても、(どちらでもないとしても、)まずは一般論ではなく「個人」としての語りが聞きたいと、「個人」的に思いました。
…………などと、最後に急に主張めいたものを並べましたが、単純に既投稿者の皆さんの記事がとても面白かったので、ついつい投稿してしまいました。
今回は、いてもたってもいられなくなり投稿いたしましたが、元来文章を書くことに非常に苦手意識を持っていることもあり、引き続きこっそりと覗いていようと思います。
こんにちは。投稿とてもよかったです。私の解釈が的外れかも知れませんが、tasuさんのEvernoteについて思うと、壊れて針が動かなくなってしまった腕時計を、机の引き出しにしまい込んでるような、そんな気持ちになりました。
私にも、停まってしまった歴史を象徴するものがあるようです。いつか書けたらここに投稿しますね。
Evernote、インストール(ダウンロード)して、ちょっと使ってみたのですが、上手に使えませんでした。一方、会社の同僚には、Evernoteを中心に使って、仕事を廻している人もいます。
Evernoteか、それのアップグレードされたツールを使って、私も仕事を廻していきたいです。
今は、仕事に廻されてしまっています😭😭😭