「賢くなる」とはどういうことか?
以下の投稿を読みました。
どこかで考えようと思っていたので、この波に乗って考えてみましょう。
能力か状態か
まず考えたいのは、それが能力なのか状態なのかということです。何かをなしうる能力を持っていることが「賢い」なのか、それとも何かしらの状態が「賢い」なのか。
「賢くなりたい」
という表現からうかがえるのは、能力というよりは状態でしょう。「賢い」を辞書で引いても「頭の働きが鋭く、知能にすぐれている」のような記述にぶつかりますし、これは状態(ステイタス)を示しているように思います。
もちろん、何かしらの状態は、何かしらの能力と結びついています。しかし、その二つは常にセットというわけではありません。
Aという状態が、Bという能力を引きだすとしても、Bという能力を持っていたらかならずAの状態であるという保証はありません。同様に、何の能力も引きださない状態(あるいは容易に知覚される能力は引きださない状態)というのもありえます。
だから、tksさんが記事の最後にもたれた疑念はもっともです。たしかに能力から定義してしまうとこぼれ落ちるものが出てきます。
指標としての能力
しかしながら、「賢い」を「頭の働きが鋭く、知能にすぐれている」と言い換えたところで、具体的な内実には迫れません(むしろそれが「状態」ということの意味なのでしょう)。
言い換えれば、「頭の働きが鋭く、知能にすぐれている」状態になりたい、という願いだけでは進路は確定できないのです。
だからこそ「何ができるか」という能力に注目し、それを指針とすることに意味があります。ただしその指針は、「影」のようなものです。本体そのものというよりは、そこから投射される輪郭線のようなものであって、その影だけを見つめていても本体には迫れないでしょう。
そういう関係があるように思います。
あらためて「賢くなる」とは
というところまで考えていおいて、「賢くなる」について検討しましょう。
ここでは一般的なそれではなく、私の中の印象を探究します。その際、「賢い」を「頭がよい」という言葉に置き換えて考えます。これは私が「賢い」という言葉をふだん使わないからです。むしろ私は「頭がよい」という(きわめて日常的で卑近な)表現を使います。そちらの表現の方が私にとって思索を進めやすいので、「賢くなりたい」を「頭がよくなりたい/頭をよくしたい」とパラフレーズ(あるいは翻訳)しておきます。
では、私の中で「頭がよい」人のイメージはどんなものでしょうか。
まずクリアであることが上げられます。知識、意見が明瞭ということです。ただし注意して欲しいのは、この明瞭さには「自分がわかっていることとわかっていないことの区別もクリアである」が含まれます。なんでもかんでも知ったかぶりして語ることは「頭が良よい」ことではありません。知っていることは明瞭に述べ、知らないことは「それについては知りません/わかりません」と明瞭に述べられること。そういう人に頭のよさを感じます。
次に内省的であることです。何かを話すことに時間をかける人、あるいは自分が話したあとに「うん、そうだ」とか「いや、違うな」と判断できる人。言い換えれば、自分が何をいうのか、自分が何を言ったのかに注意を払っている人です。概ねそういう人たちは、論理が必要とされる場合には論理的になりますし、情感が必要なときには情緒的になります。コンテキストに合わせた発言が選択できている、ということなのでしょう。
この二つが揃うだけで、かなり「頭のよさ」感が出てきます。
もう一つつけ加えるとしたら、行動的であることがあります。別の言い方をすれば「決められる」こと。
現代では、知識を得るだけならばほぼ無料で際限ない情報が摂取できます。そうするとどうなるかと言えば、決められなくなり、行動できなくなります。言い換えれば、知識に振り回される状態です。私の中の「頭の良い人」は、そうした状態に陥らないための術(すべ)を持っています。
具体的には、わからない部分があっても決める。図り切れない部分があっても実行に移す。そういう判断ができること。そのような営為を保持している人は、私の中で「頭のよい人」になります。
再帰的な状態
ここまで考えてみて、私の中の「頭のよさ」=「賢さ」のイメージにかなり迫れた気がしますが、これらを統合して出てくるのが静的なイメージだとやっぱりちょっとズレてしまいます。
tksさんも「知識を求める姿勢が大事」と述べられていますが、何かしらの状態に加えて、指向性のようなものも不可欠な要素でしょう。
妙な話ですが、「賢くなりたい」とそう切実に思っている人が、案外「賢い人」なのかもしれません。あるいはそれが「賢い人」の最初の入り口であり、ずっと続く門だということもあります(稲荷神社のイメージ)。
たとえば、私はいま物書きとして仕事をしていますが、私が「物書きであり続けたい」という思いを捨ててしまったら、その瞬間から──肩書きは別として──実質としては「物書き」ではなくなってしまうでしょう。
その意味で、何かしらを欲する指向性そのものが、それ自身を形作るものはあるように思います。
なんだか、余計に混乱が深まった気がしますが、とりあえずはここまでにしておきましょう。