「賢くなる」とはどういうことか?について本気出して考えてみる
倉下さんのメルマガにて、私がゲストとして参加したナレッジスタック・ポッドキャストの第二回の内容について言及していただきました。
簡単に説明しますと、ポッドキャスト内で私は「究極的には賢くなりたいと思っていて、そのためにObsidianを使っているのだ」といった話をしました。
それに対してメルマガでは、私が「賢くなりたい」と表現したものについて、倉下さんの場合は「うまく考えられるようになりたい」という欲求があることも書かれていました。さらに、欲求の掘り下げはツールを使う理由にも繋がってくることにもなるので、自分が欲しているものを掘り下げてみるといいと書かれていました。
今回の投稿では、メルマガの中では宿題とされていた「『「賢くなる』とはどういうことか?」という問いについて、私なりに考えたことを書きたいと思います。
賢くなるという言葉を使った理由
「賢くなる」という言葉を使ったのは、ナレッジマネジメントをしたい、知的生産をしたいといった言葉では表現できないニュアンスを含ませるためです。倉下さんのポッドキャストなどを聞いて、個人的であることこそ大事だと思い、自分の原体験を振り返った結果出てきた言葉です。言葉にできない個人の実感が含まれているため、一般的に使われる「賢くなる」という言葉とは少し違うのかもしれません。
「賢くなりたい」という言葉には、立派になりたいという俗っぽい欲求が含まれています。つまり矛盾を含んだ表現になっているのですが、この矛盾を含んでいるところがお気に入りポイントです。賢くなりたいという表現自体は正直馬鹿っぽい表現だと思います。ただ、この馬鹿っぽい表現の中には、憧れ、悔しさ、好奇心、純粋さなどいろいろな感情が含まれています。今のところ、この言葉でしか表現する術を持っていないので使っている言葉でもあります。
「賢くなる」とはどういうことか?について本気出して考えてみる
自分でその言葉を使っているだけならいいですが、今回のように人にも言及してもらうのであれば、もう少し賢くなるとはどういうことかについて考えたいです。ですので、私にとっての賢くなりたいという欲求がどのようなものかについて、人にもわかるように説明する努力をしてみたいと思います。
知識が多ければ賢いのではなく、賢い人は知識を持っている
倉下さんが書いていたように「賢い」の条件として知識量が必要だというイメージは私にもあります。しかし、その一方で、知識があれば無条件に賢いと思っているわけではありません。例にあがっていた無限に蘊蓄を披露するような人は、むしろ賢くないとすら思います。
一方で、知識がない人のことも賢いとは思いません。正確に言うと、知識を増やすことを諦めている人を賢いとは思っていません。このように考えると、単純な知識量ではなく、知識を求める姿勢が大事だと思っているのかもしれません。そして、こうした姿勢を持っている人は、結果として知識が増える状態になると思います。知識を増やしたら賢くなるのではなく、賢い人は知識を持っているというイメージがあります。
賢い人は論理的に説得し、建設的に物事を進める
賢い人は説得的であるというイメージも持っています。ここでいう説得的とは、その時々の場面において適切な知識を当てはめて、相手に納得してもらったり、その結果行動してもらったりするようなことをイメージしています。加えて、理路整然と物事を説明することができることも必要で、情熱で説得するのではなく、論理的に説得するイメージです。その意味でロジカルであることは私にとって賢いことの重要なポイントです。
それと、賢い人は物事を発展させることができるイメージもあります。つまり、知識を当てはめるだけでなく、その知識によって解決策を提示したり、物事を前に進める人でもあります。私はまだそれができないです。物事の内容を把握するところはできているつもりですが、そこから前に進めることができないと思っています。それができるようになりたいという気持ちがあり、それは賢くなりたいという言葉の中に含まれています。
「賢くなる」とはどういうことか?への暫定的な結論
まとめると、豊富な知識を持ち、それを画一的にではなく状況に応じて使い、結果として物事を前に進めていくことができる人になりたいのかもしれません。
ここまで考えてみたことで、欲求が明確になった気もします。一方で、最初の賢くなるという表現とはイメージが離れた気もします。大事なものがこぼれ落ちる感覚もあります。
ただ、今の時点で考えられたことはここまでなので、一旦トンネルChannelの皆さんに読んでいただければと思います。