梅棹忠夫は『知的生産の技術』の中で、こんな風に述べました。
ある意味では、それは分類というようなものではないかもしれない。知識の客観的な内容によって分類するのではなく、むしろ主体的な関心のありかたによって区分するほうがいい。
オブジェクト的ノート術でつくる「オブジェクト」は客観的な分類ではありません。あくまで、自分がそれを「オブジェクト」だと認識する対象について区切りを入れるだけです。
Johnny.Decimalで作るカテゴリ・エリアも同様です。
Categories are the boxes we just talked about. They're collections of similar stuff: travel documents; marketing material for your small business; facilities maintenance for the tennis club.
カテゴリは「collections of similar stuff」だと述べられています。似ているもののコレクション。言い換えれば「あなたが似ていると思うもののコレクション」。客観的な分類ではなく、主観的な近親感によって構成されるのです。
Johnnyは、そうした「分類」に起こる混乱をきちんと認識しています。
Insurance > Car
and Insurance > House または
Car > Insurance
and House > Insurance
?
こういうことが起こりそうですよね。
In reality, you just decide. It's not like you're ever paralysed with indecision: that's the entire point of the structure of Johnny.Decimal.
でも、「あなたが決めればいい」のです。決めたものがカテゴリになります。自分が自分の分類軸を作っていく。客観的に「正しい」ルールに従うのではなく。
そうやって決めて使っていくうちに、徐々にその構造に馴染んできます。それで使えるようになっていくのです。
あなたの人生に立ち返る
Capacitiesは、「あなたにとっての、オブジェクトは何ですか?」という問いを投げ掛けてきます。百科事典を作るのではなく、あなたの人生のオブジェクトリストを作る。
Johnny.Decimalでも、「あなたにとっての主要なカテゴリは何ですか?」という問いが突きつけられます。自分は、人生においてどういう情報を扱い、それをどんなまとまりとして見ているのか?
PARAなどの情報の客観的な性質による分類軸は、その客観性によって「誰にでも使える」汎用性の高い分類になっています。しかし、逆に言えばどこまでいっても「誰にでも使える」ものでしかありません。それは「あなたに仕える」(タイポではありません)ものとは限らないのです。
こんまり流の整理術では、自分の家にあるものを一つひとつ触って、ときめくかどうかを判断し、ときめかないものは捨てるという片づけ方が紹介されています。これは世間的に必要なものという判断軸から、自分にとって必要なものという判断軸にシフトする一種の自己啓発とも捉えられます。
情報の整理術においても、そうしたシフトが必要なのかもしれません。
客観的でも、世間的でもない、自分軸による整理軸の確立が。
>客観的でも、世間的でもない、自分軸による整理軸の確立が。
この言葉が残りましたー。常に最善と未来のある整理をしたいと思い、いろいろな方のやり方を参考にしていると、息切れて、最初の形に戻って、ため息をついていました。
でも、やっぱり未来のある価値の情報整理を残していきたいと願います。少し救われた気がしました。