「自分の言葉」を模索する
以下の投稿を読みました。
おもしろいテーマですね。ちょっと考えてみましょう。
私たちの「言葉」は、どうあがいても借り物です。日本語は自分で創作したものではありませんし、仮にそうしたものであれば日常会話にはまったく使えないでしょう。多くの人に共有されているからこそ、言葉は言葉としての効能を有します。
すると、基本的に言葉は借り物であるとして、その上で「自分の言葉」と言えるものは何かを考えていくことが方針になります。
で、「自分の」という所有格がついているのですから、まず「自分」がなければいけません。それが上の投稿にあった「日々を生活する」ということの意味でしょう。自らの生活なしにして「自分」の源が立ち上がることはない。まずはそう言えそうです。
おそらくは、そこに二つの要素があります。一つはその人なりの経験で、もう一つがその人なりの感じ方です。
一人ひとりの人間は違った経験をして人生を紡いでいるわけで、その時点でオリジナリティーの素を持っていると言えます。とは言え、そうした経験をしていても、ほとんど何も感じないままに過ごしているのならば、差異は立ち上がらないでしょう。
森有正は体験と経験を峻別しましたが、その言葉を借りれば、感じることを欠いた体験と、体験したことを吟味した上で生成される経験という風に切り分けられるでしょう。私たちのオリジナリティーをよりクリアに浮かび上がらせるのは経験の方です。
そうなると、(それぞれに異なる)日々を生きる体験に加えて、そうした体験をどう吟味するのか、という「感じ方」がポイントになってくるというわけですが、そこでも「言葉」が効いてきます。杓子定規な、あるいはステレオタイプに満ちた「評価」で自身の体験を処理してしまえば、加工されて出てくる経験もまた杓子定規なものになるでしょう。
私たちは、言葉──それは物事への価値判断も含む──を借り受けるからこそ、「ありのままの状態」では、自身の体験の評価もまた借り物になってしまう。「自分の」というコンセプトを立ち上げる意義があるとすれば、そうした先駆的なものからの逸脱/離脱を目指す点にありそうです。
自身の体験を吟味し、それが自分が知識として(つまりは先入観として)持っている言葉とはうまくマッチしない事態だと確認したところで、ふさわしい言葉を探そうと手を伸ばすこと。そこに「自分の言葉」が立ち上がってくるはずです。
この点を考えれば、何も吟味することなくただトリッキーに新しい言葉を使うことが「自分の言葉」(引いてはオリジナリティー)につながるわけではない、ということがわかります。ある種の違和感があり、その違和感を解消するために言葉を模索するところにこそ、「自分の言葉」の源泉があります。
ではなぜ、そうした模索が行われるのか。ここに「他者」が関係しているでしょう。
閉じた「自分」の中にいれば、適切な言葉を探そうとする意欲は湧いてきません。しかし、伝えるとなれば話は変わります。うまく伝えようという意志のもとにこそ、適切な言葉遣いの精神が宿るのです。
そしてそれは、周りに他者が存在しなくても同じです。イマジナリーな他者に向けての、あるいは「自分」を観察する自分が、自己理解のために検討する言葉遣いは、あたかも「他者」がいるかのように振る舞います。まったく同じではなくても、完全に閉じた「自分」とは違った駆動が生じるのです。
こうして考えると、最終的に出てきた言葉が、かつて誰かが言っていたこととまったく同じであっても、それはやっぱり「その人の言葉」であるとは言えるでしょう。言葉そのものが大切なのではなく、それを手にしようと模索するその過程こそが、「その人の」を担保するのですから。