目標には苦手意識があります
今年の目標は決めていません。そもそも目標には何となく苦手意識があるからです。目標というのは立てたところでどうせ達成されないという気持ちがあります。かつてはプロスポーツ選手が言うビッグマウス的な目標に感化されて大きな目標を掲げてみたこともありますが、当然のようにうまく行きませんでした。
「今年の」目標にも苦手意識があります。今年の目標が自分に良い影響を及ぼしたことがないからです。そもそも今年の目標を1年間ちゃんと覚えていたことすらありません。
なので、今年も「今年の目標」は決めずに過ごすつもりでした。ですが、倉下さんの投稿やそれをきっかけにした皆さんの投稿を読んで、決めないとしても改めて考えてみようと思いました。
目標の原体験
今年の目標を考える前に、まずは目標について考えてみようと思います。ただし、一般的なことではなく、個人的なことから考えてみようと思います。そのために、まず私の目標の原体験から考えてみます。
目標についての原体験は学生の頃に遡ります。小さな頃から団体で行うスポーツをやっていた私は、「優勝」や「県大会出場」といった目標とともにそのスポーツに取り組んできました。試合前には必ず円陣を組んで「絶対勝つぞ!」と皆で声を合わせて試合に臨んでいました。
ただ振り返ってみると、その目標は本当に目標だったのどうか疑わしい気持ちになります。もちろん優勝や県大会に出場したい気持ち、試合に勝ちたい気持ちがなかったわけではありません。しかし、「本当に」そう思っていたのかは自信がありません1。
例に挙げた目標は、前の代から受け継がれた儀礼的なものだったわけで、本質的な意味はありませんでした。もちろん儀礼は儀礼で重要で、もしかしたら儀礼を続けていく中で気持ちが本物になっていくこともあるかもしれません。ただ私にとっては、自分の気持ちが強くなっていくよりは、冷めていく影響の方が大きかったのかもしれません。
そして、目標は達成されたり、されなかったりしました。チームスポーツでしたし、相手もある競技だったので、目標が達成されないことがあるのは当たり前です。優勝の枠は参加チームの中の1チームにしか与えられないわけですから、構造的にも達成されにくくなります。達成されたこともありましたが、それが目標のおかげだったのかというと疑わしいです。
スポーツから離れた私が次に目標と対峙したのは受験のときです。ほとんどの受験生がするように、私も「〇〇合格!」といった目標を立てて受験に臨みました。結果としては、達成されたり、されなかったりしました。
振り返ってみると、親、学校、塾といった周りが納得するような目標を立てていました。「〇〇を学びたい」ではなく「〇〇に合格したい」という目標を立てていたことからもそれがわかります。そして、周りだけではなく、自分もそちらの方が安心したのだと思います。達成するためというより、安心するために目標がありました。
目標への苦手意識
これらの原体験がどのようにして目標への苦手意識につながっているのかを改めて考えてみたいと思います。
苦手意識の背景にあるのが、目標との距離感です。かつての私が掲げた目標は、スポーツにおいてはチームとしての目標でしたし、受験においては世間の目標でした。その結果、自分と目標の間に距離感が生まれました。自分の目標なのに、自分の目標ではないのです。
そもそも目標を立てることの目的が自分を動機づけたり、駆動したりすることだと考えると、立てた目標が自分のものだと思えなくなるのは致命的です。
自覚はしていませんでしたが、私が現在目標を立てないのは、目標が自分のものではなくなる予感があるからかもしれません。目標を立てたとしても、その目標と自分との間に距離が生まれ、やがて欺瞞的なものに感じられるだろうという予感があります。
他の投稿者の方は「目標」の代わりに、「テーマ」や「指針」といった表現のものを用いていると書かれていましたが、テーマや指針は自分との距離感が生まれにくいのかもしれないと思いました。テーマや指針は「なりたい自分」や「ありたい自分」を表したり、困ったときの道標になったりするものです。おそらく日々の生活の中で得たものが元になって生まれるものですので、距離感が近いままでいられるのかもしれません。
また、目標への苦手意識の背景にあったのは、目標を達成できないことではなく、達成できない自分を責めてしまうことでした。のらてつさんが「目標が駄目な自分をまともな自分にするためのものになっていた」という主旨のことを書かれていましたが、これに近い感覚だと思います。
つまり、自分をあまり有効に駆動してくれるわけでもなく、結果的に罪悪感を与えてくるというイメージがあって、それが目標への苦手意識につながっているのだと思います。
目標への苦手意識に対してスポーツや受験の原体験の悪影響はあったと思いますが、もちろんそれだけが原因だったとは思いません。むしろ、いまだに勝利や達成することを中心とした目標観やイメージから脱却する方法を見つけることができていないのが、目標への苦手意識の最も大きな原因でしょう。おそらく「テーマ」や「指針」はこうした目標への苦手意識を避けるための1つの方法になると思います。
「今年の」目標
続いて、「今年の」目標について考えてみます。
「今年の」目標は、自分との距離感が生まれやすい性質があると思います。というのは、今年の目標は1年間という長い期間付き合うものだからです。
2023年の元日に今年の目標を立てたとき、2023/1/1の自分と目標との距離は近くても、2023/12/31の自分と目標の距離は遠くなるのは容易に想像ができます。そもそも2023/1/31くらいには忘れる自信があります。2024/1/1には2023年には目標は達成されなかったという嫌な気持ちをうっすら持ちつつ、それを打ち消すために2024年の目標を立てるでしょう2。
そうしたことを防ぐために、忘れないよう今年の目標を書き出して目にみえるところに貼っておくといった工夫をするかもしれません。しかし、そうしたところで無駄な気がします。覚えておいたところで目標を立てたときの新鮮な気持ちや熱意は時間と共に失われていくからです。こうした工夫は、目標との距離を遠ざけるスピードは多少遅くできたとしても、目標との距離を近づけるには至らないことが予想されます。
おそらくこの問題を解決するためには、時間をかけて目標を立てることが必要なのだと思います。そもそも1年間付き合う目標なのに、元日にパッと思ったことを目標にしたところでうまくいくわけがありません。四六時中ではなくとも、前の1年間の中で時間をかけて考えてもいいはずです。
今年の目標は来年の目標を見つけるにしてみる
目標について考えてみたわけですが、このタイミングで「今年の目標は〇〇です」と宣言しても、うまくいかないのが目に見えています。とはいえ、ここまで考えてみると、目標とうまく付き合う方法もあるのかもしれないくらいには思えるようになりました。
ということで、今年の目標は、来年の目標を見つけるにしてみます。その際、心がけることとしては、「私の」目標になるもの、「1年間」の目標になるものを探してみることにします。
もしかすると他の投稿者が書かれているように「テーマ」や「指針」の方がいいという結論になるかもしれません。とはいえ、「他の方の投稿も読んだので私もテーマや指針を設定しました」よりは、「1年間くらい目標について考えてみたけど、やっぱりテーマや指針の方が自分に合っている」と考えられた方がいい気がします。
今年1年、折に触れ考えていければいきたいと思いますが、とりあえず、来年の目標が再来年の目標を見つけるにならないようにはしたいです。
わかる人にだけわかってもらえればいいと思って書きますが、『響け!ユーフォニアム』で久美子が麗奈に言う「本当に全国に行けると思っていたの?」というセリフを言わないまでも心の中に思っていました。
ちなみに、「今年の」目標の良さはわかるようになりました。ObsidianやLogseqのデイリーノートを使っていて、区切られることのありがたみを感じるようになったからです。毎日デイリーページがまっさらになるので、昨日ダメだったら、今日がんばればいいという気持ちにさせてくれます。新年の目標にも「まあ昨年は色々あったけどさ。とりあえず忘れて、今年どうするかまっさらなところから考えてみようよ」的な良さがあることはわかるようになりました。