あらためて「1年の目標」について
「人から与えられた目標」「周りを安心させるための目標」のコレジャナイ感、わかる気がします。
tksさんの原体験を読んで、私も学生の頃の部活動を思い出しました。
自分は納得していないけれど、受け入れた目標がありました。波風を立てないため、自分自身で目標を立てることが怖いため、それについて深く考えることを避けるため、……。
先日の投稿の補足
私の場合「指針」と書いてデイリーノートの隣に置いているので、先日の投稿では「指針」と書きましたが、広い意味では「目標」と言っても良いと思います。
(サブタイトルにおいた『「目標」の研究』でいう「目標」です。私はこの本の「目的」と「目標」の使い分けが好きなのです。また、GoFujita さんが書かれていたように、『アウトライン・プロセッシングLIFE』の影響も強く受けていると思います。)
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学生の頃と違うのは、tksさんも書かれているとおり自分との距離感です。
個人的には、「何か違うな」と思った時に見直すことが、自分との距離感を近くする上で重要である感覚があります。
そして、距離感が近いうちは、自分を駆動する力となってくれます。
あらためて「1年の目標」について
tksさんの投稿の注記にかかれていた「今年の目標の良さ」には、なるほど、と思いました。「1年」で切断することで、まっさらな状態になれる。これは、もしかしたら のらてつさんが「自分がどう生きるか、年度始めを利用して考え直すのが自然」とおっしゃっていたこととも関係するのかもしれません。
ここ数日の皆さんの投稿を読んで、「1年の目標」についてもう一つ、自分の中で大きな気づきがありました。
”1年(あるいはそれよりも長期)の目標は、その期間に見合った、大きな取り組みに目を向けることができる。”
……書いてみると当たり前のことなのですが、私の中では「そうか!」となったのです。
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「1年の目標」は、「1年くらいかかりそうな大きな取り組み」を意識するための目標であり、1年間維持する目標ではない。
つまり、1年の目標も「何か違うな」と思ったら変えてしまえば良いのではないか、ということです。たとえ「1年の目標」を一か月で変えることになっても、「1年くらいかかりそうな大きな取り組み」に、一か月間は自分を駆動してくれるのだから。