「タスクリスト」に こだわらないことに こだわる。
少し言い過ぎました。
「人との約束」はこだわって管理します。例えば、待ち合わせの予定や、仕事の締切などです。「人との約束」を忘れて、誰かに迷惑をかけてしまうのは面白くありません。
タイトルで言いたかったのは、「人との約束」以外———具体的には「自分との約束」———については、意識的にこだわないようにしているということです。「締切などの、『人との約束』に向けて今日やろうと思ったこと」も「自分との約束」に当たります。
別の言い方をすると、私は「過去の自分がやろうと思ったこと」について、こだわらないことに こだわっているようです。チェックボックス付きのタスクリストをなんだか「デイリーノート(日々のメモ置き場)」に置けません。
少し前に、GTDの跡地に「いつかやることリスト」だけが残った話を書きました。
その後のタスク管理の変遷は、「(反動で)何も管理しない」→「さすがに『人との約束』だけは管理しないとまずい!」です。
理論を積み上げて今の形に落ち着いたわけではありません。
ですが、「過去の自分との約束」にこだわらないことには、いくつか理屈があるように思えてきました。
少し言語化しておこうと思います。
判断をしないわけではない。
「過去の自分との約束」にこだわらない、タスクリストを作らない、と書くと「tasuという人物は何も考えずに、流されるままに生きているのだな!」と思われるかもしれません。(強くは否定できないのですが、)一応はそんなことありません。
作業に着手する時に、その都度その時何をするか考えます。タスクリストはありませんので、これまでやってきたことや、日々のメモなどを眺めます。そうして、その瞬間に何をすべきか考えます。
GTDのおかげで、作業に着手する時にリストを眺める習慣が身についていました。なので、一度立ち止まって考える。それから動き出す。といった流れができているのかもしれません。
タスクリストをつくるのは、過去の自分
「タスク」を実行するのは、今の自分です。そして、タスクリストは(その作成直後に実行するタスクを除いて)過去の自分がつくったタスクが並ぶリストです。
「昨日の自分」や「今朝の自分」は、今よりは「今の自分」のことを分かっていません。「昨晩の寝不足の影響で少し頭痛がすること」、「お昼にちょっとしたことで妻と小競り合いをしてしまったこと」や、「なぜか分からないけれど、隣の家で犬が小1時間くらい吠え続けていること」を「過去の自分」は知らないのです。
今の自分が、何をすべきか考える。
「過去の自分」と約束をしても、破るときは破ります。「今の自分」の方がタスク実行者(=今の自分)の状況をよく分かっているからです。また、「自分との約束」は、破っても誰にも迷惑をかけないからでもあります。
そして、「過去の自分」との約束を破るのは、考えて判断した結果であれば、怠惰ではないとも思うのです。
にもかかわらず、「過去の自分との約束」を破ると、少しだけ罪悪感を抱きます。また、「過去の自分との約束」にこだわって無理やりタスクを実行することは、とても息苦しいものです。
だとすると、「過去の自分との約束」に こだわらないことに こだわることは、私にとっては意味のあることのように感じます。結局は、その時その時最良と思う行動を考えていくしかないみたいです。
唐突に憧れ
この結論は、私が「タスクリスト」に圧を感じるようになったからです。
本当は「自分との約束」についても、タスクリストがあった方が有効に機能するのでは、とも思います。でも、どうにもうまくいきません。
倉下さんのように、「チェックボックスがついていても、それはメモ」、
Tak.さんのように、「DOをいつでも『できれば』に移動できる」
といったマインドを持つことができれば、いつかデイリータスクリストをつくれるようになるのかもしれない。と、夢見ています。
おわりに
そういうわけで、今日も「タスクリスト」に こだわらないことに こだわっていこうと思います。
ですが、
明日には変わっているかもしれません。「タスクリスト」に こだわらないことに こだわることについて こだわらない方が良い とも考えているからです。
これについても、「過去の自分」が決めたことではなくて、その時その時ちゃんと考えて決めたいものです。
蛇足
なんだか「こだわる」がいっぱいでゲシュタルト崩壊してきたので、しまじろうの「考えることについて 考える曲」を置いておきます。
平日夜の疲れた頭がリフレッシュされますように。