ぼくのGTDのはじまり その4
まずは、この記事をよんでください。
「To-Doリストが破綻したあとに」 Word Piece >>by Tak.
記事の公開は2011年7月です。ぼくなりの要点をかいてみます。
会社で働いていたTak.さんが、多忙ということばでは表現できないほど多忙であったとき、To-Doリストは機能しなかった。
それほどまでに多忙な人にとって、To-Doリストという発想が破綻している..、いや、「手法」や「ツール」で問題が解決できるという発想自体が破綻している。
70年代のアメリカには、黄色いリーガルパッドとインデックスカード、そしてTo-Doリストがあった。でも日本に帰ってきたときにTak.さんがみたオトナたちは、To-Doリストをもたずにビジネス手帳をつかっていた。
日本でTo-Doリストをもったオトナが増えたのはたぶん、情報化社会が日本にもおとずれ、システム手帳ブーム(システム手帳をもち歩く、できそうなビジネスマンをよく見かける時代でした)の起こった80年代半ばくらいからではないか。
やがてPCとインターネット、とくにメールの普及で、ぼくたち平均的な市民のもつTo-Doの数が劇的に増え、ツールや手法なしでは処理できなくなり、GTDが登場。
しかし、To-Doリストや、それをうまく処理する「手法」を使おうとする発想は、45時間一睡もしないほど忙しい人たちには機能しない、破綻した発想である。
そんな時代を生きる今のぼくたちが必要としているのは、To-Doリストではなく、To-Beリストである。
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To-Beリストとは何でしょうか。
これはたぶん、新しくことばをつくることにとても慎重なTak.さんがつくった、数少ない造語のひとつだと思います。
To-BeのBeは「存在」のことで、自分が「存在」するため、つまり生きるため、生活するため、人生をすごすために必要なことがかかれるのが、To-Beリスト。Tak.さんは、そう別の記事にかいています。
で、いよいよ本題。以下の記事をぜひよんでください。2012年10月末に公開された記事です。
「マンダラートには「中心」がある」 Word Piece >>by Tak.
多忙ということばをみた人がへそで茶をわかすくらいに、忙しい日々を過ごしていたTak.さんが、会社を休む決断をしたあとの記事です。
手法やツールをつかうという発想自体が破綻するほどに忙しい人であるTak.さんにも、例外的に役立つ手法/ツールがある。それがマンダラート。
マンダラートって何?というあなたも、この記事に紹介されている図をみれば、ひとめで何となく分かる (それを生かす使い方は、実は見かけほど直感的ではなく、よくデザインされた技術が用意されていると、ぼくは予想しています) 手法、あるいはツールです。
タスク管理ツールやTo-Doリストとマンダラートがちがうところは、マンダラートのマンダラには「中心」があること。
「今日やること」のマンダラートをつくるとき、その中心に「自分」を置く。自分の願望、自分が生きる上で大切と思うことを入れる。
今の自分にとっては、疑いなくそれは生活リズムと食生活を立て直して、Tの体調を回復させることだ。だから「夫婦の生活と体調の立て直し」と入れる。体調を崩してるのは妻だけど、自分の体調だっていいとは言えないので、自分も含めて
そして、周辺セル8つに「やること」を置く。
マンダラでは周辺セルと中心セルはイコールの関係になる。つまり周辺セルに書き込むこと(≓タスク)は中心セルと矛盾しない必要がある。だから書き込める内容は、自動的に中心と一致する、あるいは中心を成立させるための行動になる
勘ちがいしているかもしれませんが、勇気をだしてかくと、マンダラートをつかうと、中心に置いた「自分」と同じほどに大切な「やること」を8つだけ選んでかくことになります。
そして、この8つのリストからこぼれ落ちた「やること」はやらない。それは仕方ないと割り切る。
寝る時間を大いに削っても終わらないくらいのTo-Doリストをもつ職場の人たちがどれほど大変かを承知で、Tさんのことを想いながらTak.さんのつくった「1日のマンダラ」。
職場ではたくさんの人に迷惑をかけているけど、自分のしてることが間違ってはいないことを確信できるのは、マンダラの中心と行動が一致しているから
これがTo-Beリストです。
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この記事をよんだのは2012年10月31日の午後2時すぎ。場所は、今はなくなってしまった鎌倉のミスタードーナツ。若宮大路からつづく大通りの見える席で、浅煎りのアメリカ的なおいしい珈琲を飲みながら、鳥肌が立つほどに感動したのを覚えています。
To-Doリストという発想が、あるいは出会った手法やツールを「使いさえすれば」仕事に追われる今の生活を変えることができるという発想が、どうしてうまく機能しないのか。
この文章と出会うことでぼくは思い知ることができたと、10年たった今も考えています。
余談ですが、ブログをかきたいと強く想うようになったいくつかのきっかけの中で、とても大きなステップが、この記事との出会いでした。
なぜ、日付までくわしく覚えているかというと、興奮さめやらぬぼくがTak.さんへの長い長いお礼の気もちの文章をかき、それをまた1時間以上かけて短く削ったコメントが、この記事の下に残っているからです (笑)。