以下の投稿を読みました。
「やるべきこと」を3つにしたぼくが、その次にGTDをシンプルにするために勇気をだして「減らした」のは、週次レビューでした。週次レビューという時間をとるのをやめました。週次レビューをしないGTDをGTDと呼んでいいか、皆さんにも異論あるところと思います。
たとえば、週次レビューをしないGTDは、GTDとは呼べないと私は思います。
と書くと、ものすごく否定的なことを言っているような気がしますが、実際は「で、その何が悪いの?」という文章が私の中では続くのです。定義を厳密にみれば、それは「GTD」という呼称にはそぐわない。でも、GTDの理念を受け継いで、自分なりの方法に昇華している(というとおおげさかもしれませんが)なら、実践上はなんら問題ないでしょう。別に人はGTDのモデルを精緻にするためにタスク管理をしているわけではありません。自分のタスクを管理するためにタスク管理をしているのです。
で、この辺に私のもやもやした感じが潜んでいます。
かつてGTDには、「GTD+R」みたいなアレンジがほそぼそとありました。使用者が自分の工夫で手法をアレンジしていたのです。個人的にはこれが健全な在り方であるように思います。逆に、手法を神格化して「その通りにしているかどうか」が焦点化(≒問題視)されるのはかなりいびつでしょう。
もちろん、そうしたアレンジはもともとの手法の理念や原理を十分深く理解してから行われるのが大切です。そうでないと、単なる「なんちゃってhoge」になりかねません。ある技法が目指しているところを知り、それを自分に置き換えて工夫を発動していく。これが好ましいアレンジの仕方でしょう。「師の跡を求めず、師の求めたるところを求めよ」というのは、こういう姿勢だと思います
その意味で、各種技法は「開かれている」のが望ましいでしょう。基本コンセプトは紹介するけれども、後は実践に合わせて改造してね、という感じ。土台とか基礎フレームとか、そういうものだけあって、後はユーザーまかせの方針。
その意味であれば、goさんがやられている手法はGTDのスピリットをしっかり引き継いでおられると思います。「GTDかどうか」や「GTDと呼べるかどうか」ではなく、GTDの理念を継承している、といった感じです。
逆に、日本でのGTDの広まりを振り返ってみると、むしろ「原典通りにやろう(あるいはやるべき)」という空気が強まっていった気がします。特に、うまくできていない人ほど、「正しさ」を求めていた感触があります。つまり、「正しく」やればうまくいくだろう、という価値観がそこにはあるわけです。でも、そんな保証はどこにもありません。というか、「正しく」やること以上に、そこにある理念を自分の頭を使って理解する方が大切なのでしょう。しかし、そうした理解が──ライフハックブームの影響もあって──置き去りにされてきたような気がします。
それはGTDだけの話ではありません。ある時期から語られてきたノウハウが全般的に「OK,好きなように改造してくれよ」という雰囲気ではなくなってきたのです。それは、ヒットしたビジネス書・ノウハウ書が新版として再発売されると「厳かさ」をまとっていたことと無関係ではないでしょう。そこには「私は正しい方法を知っている。この通りにやればいい」というメッセージが強く打ち出されていました。それは別に著者がそう言いたかったというのではなく、そういうメッセージが必要とされているという理解が出版業界側にあったのではないかと推測します。混迷の時期であるほど、安全確実な「答え」が求められる。わかりやすい構図ではあります。
私は何かの手法を崇めたいわけでもなければ、貶めたいわけでもありません。それぞれの手法には間違いなく良いところが含まれています。そうした知見が広まるのは、まったくもって良いことでしょう。
しかしそうした知見は、それぞれの人が、置かれた状況を踏まえて、自分なりに工夫を発揮することで、ようやく効果が現れてくる、という理解が土台としてあってはじめて意味をなすものだと思います。
私がコミットしたいのは、そうした理解の形成です。
でもって、この理解は、実はポストEvernote時代の情報整理とか、今だからこそブログだとか、そういう話と全般的に関わっています。こうした行いは、まず上記のような基礎を固めてから、というのが実際的な話なのではないか、と考えているのです。
ちなみに、前述したGTDのアレンジは紙ツール時代の話ですし、アレンジの多いバレットジャーナルも基本はアナログです。一方で、タスク管理ツールの多くはデジタルであり、しかもリストしか管理できないものが大半です。
もし、一人の人間がいて、ツールについて理解を形成するときに、アナログの歴史を辿ったのか、それともいきなりデジタルだけがあったのか、という違いがあるとしたら、その人の理解や価値観はかなり変わってくるでしょう。iPhoneが登場して、それなりに長い年月が経った私たちは、そのことも加味して、この問題にアプローチしなければならないと思います。
なんか長くなりましたが、ようは「各自のアレンジを礼賛しよう」というのが言いたいことです。