文章と勢いと推敲
どうも、勢い文章理論家の倉下です(嘘です)。
文章には、たしかに勢いの有無があります。勢いがあれば良い文章で、なければ悪い文章といった単純な評価はできませんが、それでも文章のスタイルを構成する一部ではあるでしょう。
では、その文章の勢いとはなんでしょうか。文章は文から構成されているので、文章の勢いも文から構成されていると考えるのは最初の一歩としては悪くないでしょう。
自分の体験からいって、「次の一文を導く力がある文」というのがたしかにあります。その文を書いたら、自然と次の文が口をつく(というかタイピングしてしまう)ような文。これは、文がノリを持っているのだと考えられます。次につながるノリを。
すると、勢いがある文章とは、そのノリが文章全体に渡って整合的に展開されている文章だと言えるでしょう。そこでは、論理展開といった要素はおまけでしかなく、むしろ言葉のリズムと句読点の配置が引き起こす一つの脈動によって、読者を前に前にドライブしていくことが主役となります(内田樹氏の文章からはそういう勢いをよく感じます)。
ここまでは、おおむねよいでしょう(深呼吸)。では、「勢い余った文章」はどうでしょうか。
実際のところ「勢い余った」という表現がすでに価値判断を含んでいます。つまり、ある分水嶺を超えてしまっている、という含意があるのです。具体的に言えば、書くべきではないことを書いてしまった、というニュアンスです。
*同様に「勢いが強すぎる」もすでに否定的なニュアンスがあります。
文筆家というのは文章のプロです。
文章自体は、義務教育を受ければ誰でも書けるようになりますが、そういう「誰にも書ける文章」から一歩抜け出た技術を持つ人が文筆家という立ち位置になるでしょう。そうした人たちは、文章をコントロールできなければなりません。ラジコンのように思いのままに動かせることは無理でも、競馬の騎手のようにその力を発揮させられるだけの「制御」を行えることが必要です。
その観点からいえば、「勢い余った文章」はプロの文章とは言えません。そういう文章を書くことは文筆家でもあり得ますが(むしろしょっちゅうあるでしょう)、その文章にゴーサインを出すのはプロの判断ではありません。
プロボクサーが自分の拳に責任を持つように、文筆家も自分の文章に責任を持たなければなりません。だから、「勢い余った文章」を簡単に提出してしまうのは、あまりよろしくないことだと個人的には考えます。
とは言えです。
じゃあ、勢いなんてものは全部はぎ取ればいいのか、というとさすがにそれは行き過ぎでしょう。少なくとも、「読み物」としての面白さや力が損なわれてしまう可能性は十分にあります。
実際、最初に書き下ろした文章をあまりにも推敲してしまうと、文章の勢いが著しく失われてしまうことになります。事実が書かれているし、それも適切に書かれている。しかし、読者をまったくドライブすることがない。そういう文章になってしまうのです。
だから、書き手は文章に抑制をもたらしつつも、そうした抑制そのものを抑制しなければなりません。言い換えれば、細かいことにこだわりすぎると全体がダメになってしまう可能性に思いをはせる必要があるのです。
というわけで、文章は真剣に書けば書くほど、難しくなってきます。微妙な判断があちこちで要求されるようになるのです。それがこの仕事がいつまで経っても飽きない要因の一つなのでしょう。
ちなみに、この投稿はほぼ一発書きで書き上げました。どれくらい読者をドライブしているのかは、皆さんの判断にお任せします。