プロジェクトになる、プロジェクトにする
「プロジェクト」についての続。
デビット・アレンの『はじめてのGTD ストレスフリーの整理術』を最初に読んだとき、そこで提示されているフロー図に一番インパクトを受けました。非常に合理的に「気になること」の処理が提示されていたのです。たぶん、理系でプログラミングに素養がある人ほど、似たようなインパクトを覚えたのではないでしょうか。
あのフロー図に沿って処理を進めれば、すべてが適切なリストに置かれる。イッツ、パーフェクト。
頭の中にイメージされるのは、まさしくプログラミング的な処理です。配列から要素が一つ取り出され、それに対して If hoge の条件式が判断され、その結果に応じて処理が振り分けられる。そのような「自動的」なプロセスがイメージされていました。
非常にイノセントなイメージです。
ようするにそれは、何かしらの条件に合致する「気になること」がプロジェクトになる、という感覚です。
この感覚において「行動すべき?」という問いは、その「気になること」が”行動すべき”に資するものなのか、という問いとして解釈されます。
if 気になること == 行動すべき
行われているのは属性の比較であり、言い換えれば非意志的な情報の解析です。
このような if が繰り返し実行されると、プロジェクトリストは肥大化します。これはもう本当に肥大化します。「行動すべき」な性質を1mgでも含んでいるものならば、それはすべてプロジェクトになるのですから。
しかし、今考えてみると、この判断はもっと意志的に行われるものなのでしょう。理系的な「客観性」による情報の選り分けではなく、自らの意思の発露がそこでは求められます。つまり、「行動すべき?」は、「あなたはその結果を求めるために、行動する意志を今有しているか?」と解釈されるのです。
この二つはぜんぜん違います。でも、理系的な視点では、あのフロー図からはこういう解釈は(はじめは)立ち上がってきませんでした。
結局のところ、プロジェクトというのは情報の客観的な選り分けによって「なる」ものではなく、自らの意思で「する」ものなのでしょう。そんなことは、アレンにとってはごくごく当然のことで、強調した説明など不要だったのかもしれません。
でも、私がそれに気がついたのは、ずいぶん後のことであり、なんならGTDから離れた後のことでした。
別に誰かが悪いというわけではありません。でも、別の語りがあってもいいだろうな、とは思います。


