情報ツールの死
以下の続きです。
情報ツールを使い続けると二つのことが起こるとしました。一つは、情報量の増大で、もう一つが使用者の忘却です。
情報量の増大は、そのままの意味で保存される情報が増えていくことです。そもそもパソコンそのものでも使い続けていくとハードディスクの使用領域が増えてきます。あまりにも多くなると、削除したり、別のハードディスクドライブに移したりするでしょう。パソコンを使い続けると、どんどんデータが減ってくる、なんてことは稀です。
情報ツールは、使用と共に情報量が増える。
ごく当然のことです。
その際、二つの増え方があります。一つは、同じドメイン下における増大。もう一つが異なるドメインの増加です。前者は、たとえば写真なら写真画像ばかりが増えていくこと。これもこれで整理の工夫が必要ですが、デジタルならではの方法(主にメタ情報の不要とその検索)によってケアできる部分はあるでしょう。
もう一つの異なるドメインの増加がやっかいです。あるとき、写真趣味に加えて音楽趣味も増えた。すると楽曲の音声ファイルやら、楽譜の情報が増えてくる。でもってコーヒーの焙煎に興味が出て、コーヒー豆の銘柄のデータベースが増え、焙煎の練習動画も増えてくる。このように異なる種類の情報が増えると、管理が厄介になります。整理の体系が、メタ情報の増加だけでは対応できなくなるからです。
こうしたとき、専門アプリは非常に便利です。簡単に言えば名前空間をつくって情報の保存場所を切り分けてくれるからです。保存場所としては同じパソコンでも、使用者の認識の中において、それぞれの情報は別の場所に(しかも自分が認識できる)場所に保存されます。情報を取り出すときも、そのアプリを経由して取り出すことが可能となります。ある意味で、アプリが「フォルダ」の代わりになってくれている、ということです。
統合的・汎用的な情報ツールだと、このような切り分けができません。すべてが一緒くたに入ることになります。そして、切り分けるためにわざわざメタ情報を付与して回る必要があるのです。専用アプリを使っていれば不要な行為が求められることになります。
ここに使用者の忘却が影響します。
簡単に言えば、使っているうちにどんどん忘れていくのです。「何を、どのように」保存したのかがわからなくなります。たとえば3年も経てば、何を保存したのかの詳細や、どんなルールを設定したのかの細かい規則はだいたい忘れているでしょう。
その際、もし専用アプリを使っているならば(そしてそのアプリが十分にうまく設計されているならば)、情報を取り出すことが可能です。アプリがある種の「使い方」をアフォーダンスしてくれるからです。コーヒーアプリを開けば、豆の情報を引き出すことはできるはずです(そのためにデザインされているはずだから)。
一方で、統合的・汎用的な情報ツールだと、すべてのページの一番大きな設計は共通しています。どのページを見ても、見かけは同じです。言い換えれば、そこに情報の使い方を示唆するアフォーダンスは含まれていません。
こうなると、何が保存されていたのか、それがどのような規則に基づいて保存されていたのかはわからなくなります。当然、そこから情報を引き出すことはできません。
情報ツールの死です。
今回の考察のポイントは、専門アプリはそれ自身がコンテキストを保存し、うまくすれば利用者をアフォーダンスすることで、情報の利用を促してくれる、という点です。私自身は専門アプリは好みではありませんが、その観点は把握しておいた方がよいでしょう。
統合的・汎用的な情報ツールの場合、ツール全体が「情報を保存しておく」というコンテキストは持っているものの、それ以外の文脈はまったく存在しません。だから、時間がたち、ユーザーが「ひさびさのドメイン」の情報を引き出そうとしたときに、まったく使い物にならなくなるのです。
記入できる情報の量が限定されているアナログノートでは、こうしたことは問題になりませんでした。あるいは、セルフマネジメントの枠組みがあらかじめ印刷されている手帳でも同じことです。
デジタルの統合的・汎用的な情報ツールは、独自の問題を抱えていると言えます。先ほど上げたツールと同じように使えればいい、とは言えないのです。その点を、どう深めていけるか。それが今後の課題となるでしょう。