この記事とその元になる記事、そしてこの記事につづく記事をよみました。
ぼくたちは「今年の目標をつくろう」、「目標をつくるよい方法は何か」、あるいは「目標なんてものはすてろ」といった目標をめぐるテーマの抽象的な話し合いはたくさんやってきました。
その一方で、目標そのものについての意見を具体的に出しあったり、そうした目標をつくった人にとって、その目標がどう作用しているのか、具体的に現状を踏まえた議論をする場は限られています。
この対策として、まずは自分が目標についてどんなことをやっているかをこの場で書いてみよう。
これが、倉下さんの記事のメッセージかなと思いました。
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ぼくは英語マニアなので、自分にとってあいまいな言葉は、まず英語にしてみます。本当は一対一で対応しているはずのない、別の言語に「翻訳」することで、もとの言葉だけを見ていたのでは気づかない言語の機能に気づくことがあるからです。
「目標」ということばも、ぼくにとって以前は分かったようで実はよく分からない言葉でした。でもこの「目標」を英語の「goal」という言葉に置き換えることで、いろいろ具体的に見えてきました。
たとえば、一年先のgoalを決めるのはやはりちょっと抵抗があります。予測の難しい未来の、しかも365日も先の終着ポイントを決めてしまうのは最初から無理、という感覚があります。
そこでいろいろ考えて「今年のgoal」を決めないことにしました。そうするようになって10年以上経ちます。
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「今年の目標」、つまり一年先のgoalを決める代わりに、アウトライナー好きのぼくは『アウトラインプロセッシング LIFE』で「BE」「AS」とされていたような、自分がこうなりたいなと感じる状態を一年という制約なしで、もっと長い時間スケールで意識するようにしました。
ご存知の方も多いと思いますが、BEは自分との関わりの上で自分が欲している自分の状態、ASは周囲や社会との関わりの中でこうありたいと思う自分の状態だと思います。
5年とか10年とか、あるいはもっと長い期間をとおして自分が何をどうするか、行動の選択に迷ったときの心がまえというか、姿勢みたいなものを、断続的に大きめのフリーライティングをしながら按配しなおす、ということを繰り返しています。
Goalという到達点を決めるのではなく、こっちの方向に行けるといいけど場合によっては逆の方向も長い目でみればOK(!)と思えるような心がまえというか、意思決定の方針というか..。方位を決める指針になるコンパスのようなものです。
(これをかいたあと、tasuさんの記事をよみました。そこに出てくる「指針」もたぶん似たイメージかもしれません)
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さて、「今年の目標」に戻ります。
上の流れから、年末や正月に狭い意味の「今年のgoal」を決めたことはなかったのですが、倉下さんのこの魅力的な提案に出会ったのをひとつのチャンスととらえ、別の視点で「今年の目標」を見なおすことにしました。
「今年のgoal」を決めないことにしたぼくが、「今年の目標」を敢えてつくるとしたら、何ができるか。
まず、えむおーさんの以下の記事の、「今年の目標」ではなく「今年のテーマ」を決めるというアイディアに共感するところがありました。
「今年の目標」
去年のえむおーさんテーマは「手放す」、そして今年は「味わう」。
いいですよね。のらてつさんが「短い動詞」と呼んだこのテーマの〈カタチ〉は、日々の生活を一年先のgoalでしばるのではなく、うまく豊かにするような工夫が入っているように感じます。
そこで「テーマ theme」という名前を、ぼくもつかうことにしました。
このthemeですが、ぼくにとって身近な科学の活動でつかわれる場合、「問い questions」という意味も含まれることが多いと思います。
つまり、今年のthemeを決めるということは、一年という長くないけど短くもない時間スケールをかけて、納得できる答えの案を見つけられる問いを選ぶこと、と捉えてもいい。
一年かけて取りくむ問いを設定することは、上にかいたようにBEやASを大切にする生活、goalを決めない日々とも矛盾しないように思います。
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さて、そんなことを考えていたこの1月11日の昼過ぎ。ぼくのくらす神奈川の気候は、春のはじまりのような陽気でした。
南関東に限らず、たとえば氷点下10度以下の日も多い岩手でも、真冬のあい間にこうした春を感じる日があります。
冬には、数か月先にやってくるはずの春が混ざることがあります。
知人宛にかいた手紙を出すために近くの郵便局に行くために歩きはじめたぼくは、背中に日差しの暖かさを感じながら、そして道の右側から正面の奥につづく森とその上に広がる空の青さを見ながら、とても幸せな気分になりました。
仕事としてやってきた問題や日々の生活の中で出会っている問題、人間全体がかかえているでっかい問題も、ぼくたちがしらない惑星でぼくたちが想像もしないような「生きもの」が直面している問題も、ぼくが生まれる何百年、いや何万年、何千万年前にあった問題も、この先何百年、何万年、何千万年の未来に、たぶん人間もいない可能性が高いけれど、そこに起こるだろう問題も、解決できる問題もあれば解決できない問題もあるはず。でももちろん、それですべてOK!
..そういう気分です。
そして、今年一年かけて答えの案を探したい問いも決まりました。
「あの2023年1月11日の午後1時過ぎにぼくが体験した幸せな気もちを、いつでもどこでも再現するにはどうすればいいか」
できる範囲でかまいません。あの瞬間に感じた幸せな気分に少しでも近い気もちを、いつでももてるようにするには何をすればいいか、答えの案をこの一年かけて考えては試してみるワケです。
それはたぶん、アランが『幸福論』の中で語っている「上機嫌の作法」を磨く作業に近いかもしれません。
さて、どうなるでしょうか。
1年かけて考える「問い」。とても良いですね。私も何か「問い」を考えてみたくなりました。
GoFujitaさんの「問い:あの2023年1月11日の午後1時過ぎにぼくが体験した幸せな気もちを、いつでもどこでも再現するにはどうすればいいか」は、(恐れ多いですが)私が文章をかけるようになりたいと思った理由と近いのかもしれない、と感じてしまいました。(「いつでもどこでも」の点は、文章だと難しいかもしれませんが。)
幸せなことがあった時、「幸せ」と書くだけでなく、「幸せだと感じた状態」を何とか再現したい、伝えられるようになりたい、と思っていました。(https://twitter.com/ta_su2/status/1562440765699391488?s=20)
GoFujitaさんが1年かけて「問い」と向き合うことで何が起きるのか、なぜか私もわくわくしております。