デスクトップを雑多な置き場として使う
理とシステムと雑多なもの
以下の投稿を読みました。
tksさんが最近ObsidianのCanvas機能を使われているとのこと。三カ所引用してみます。
デイリーノートは、新しいノートを作りすぎないための一つの解決策なわけですが、Obisidian Canvasも別の解決策のように感じています。Canvasは特殊なファイルなので、Canvas=一時的なノートという認識が自分の中であるため、増えてもそれほど嫌な感じがしません。だから、とりあえずCanvasを作る、そこに色々と集めてみて判断するという使い方ができています。
そうして作成したCanvasはRINKという自分のデジタルノート内のインデックス(RINKの使い方についてもそのうち書きたいです)に位置づける、あるいはそのまま放置する、といった使い方をしています(放置してもあまり邪魔にならないと感じる)。
Obsidian Canvasはきれいに整理するためのツールではなく、むしろ雑に置いてみてから考えられるツールだと思います(あとからきれいに整理されることがある)。あとから必要ならノート化できるし、そのまま放置しても構わない。この「雑さを許容できる」ところがCanvasに感じる可能性の一つになっています。
ちょっと考えていきましょう。
例外的に扱われるCanvasファイル
「デイリーノートは、新しいノートを作りすぎないための一つの解決策」と書かれていました。では、なぜ新しいノートを作りすぎないようにするのか? 「たくさんノートを作りすぎると使いづらくなる」がその理由です。ではなぜたくさんノートを作ると使いづらくなるのか?
単純なことを言えば、ファイルエクスプローラーで目視する範囲が増えたり、探そうとしていないものが目に入る頻度が上がったり、という点があるでしょう。検索で絞り込むときやサジェストにおいても数が増えると選ぶことの負荷が上がってきます。
まず、この点に注意を向けましょう。
tksさんはこう書かれています。
「Canvasは特殊なファイルなので、Canvas=一時的なノートという認識が自分の中であるため、増えてもそれほど嫌な感じがしません」
「放置してもあまり邪魔にならないと感じる」
「そのまま放置しても構わない」
Canvasもファイルを作るので、ファイルエクスプローラーにも表示されますし、検索でも出てきます。フォルダ分けなどをすればエクスプローラーについては解決できますが、ひとまずそのことは置いておきましょう。
「たくさんノートを作りすぎると使いづらくなる」のにも関わらず、それがCanvasならば使いづらさは生じない。
ここに興味を向けるべき現象が含まれていると感じます。
表示の違い
特殊な設定をしない限り、現状のObsidianでは、Canvasファイルは以下のように表示されます。
ファイルエクスプローラーでは「CANVAS」という表記が付与され、QuickSwitcherでは拡張子「.canvas」がつきます。つまり、他のmdファイルと表示のされ方が違うのです。認知的に言えば、「違うもの」に見えます。
この「違うもの」というのは、個々のmdファイルの違いよりも一つレイヤーが上の「違い」を意味しています。
スクリーンショットにある「書評_翻訳者の全技術」と「図書館を建てる図書館で暮らす」はもちろん、違うファイルがそこにあることを示しています。違うタイトルがついているのだから、違うファイルなのは明白です。
一方で、「CANVAS」という表記があるファイルと対比すると、「書評_翻訳者の全技術」と「図書館を建てる図書館で暮らす」は同じという感覚が芽生えます。同じものに属しているんだけども、タイトル=名前が違う。そういう感覚です。
理(ことわり)
ではその「同じものに属している」とは何なのか。
たとえば、「Obsidianにはこういう情報を保存し、それらはこういう運用をする」という規定を設けていたとしましょう。それは明示的なものであっても、暗黙的なものであっても構いません。単純なもののこともあれば、複雑なもののこともあるでしょう。なんであれ、そこに並んでいるものへの一定の扱いの規定がある。
人がノートを代表とする情報整理ツールを使うとき、そのような規定が育まれます。というよりも、それがうまく育まれないと使っていくのは難しいとさえ言えるかもしれません。
そうした規定をここでは「理(ことわり)」と呼び、その理に応じて情報を整えていく行為を「整理」と呼ぶことにしましょう。また、そうした整理によって、自分・対象・道具が調和的に機能しているその全体を「システム」と呼びます。
そうすると、先ほどの「同じものに属している」は、「同じシステムに属している」と言い換えられます。
雑多なもの
人の生の全体を見据えたとき、一つの情報整理ツールで行える整理はどうしても部分的なものにとどまります。ある整理をおこなったとして、そこからこぼれ落ちるものが必ず出てくる。
たとえば、うちあわせCastの第百八十回で「保存しないテキストエディタの使い方」の話が出てきました。別にそういうものは保存したって構わないわけです。最近のパソコンではそうしたメモが10年分溜まったところで容量を圧迫する心配はありません。でも、保存したいとは思わない。なぜか?
保存するためには、保存する場所が必要であり、その場所にはその場所の理が働いているからです。そこにそうしたメモを入れ込んでしまうと、もともとあった理が disturb されてしまいます。それが嫌なのです。
デイリー方式が効果的なのは、「雑多なものはデイリーに書く」という理を機能させれば、どれだけその中に雑多なことを書いても、一つ上の理が disturb されなくなる点にあります。自分が情報を探し、リンクを作るというプロセスに影響を与えないで「雑多=理外」のことを書いていけるのです。
逆に言えば、「雑多なことはデイリーに書く」という方式の良さは、デイリーを扱うレベルの他の理がどうなっているのかに影響を受けます。「デイリー」だけを見ていても、わからないわけです。
デスクトップという置き場
以上がtksさんの投稿を読みながら考えたことで、以降は似たことをやっているよという話になります(長すぎた前振り)。
最近は、自作のエディタを使っていて、mdファイルをよく作ります。で、Obsidianと違って特定のフォルダに限定されないので、「これについてはちょっと考えたい」という漠然とした考えについては、暫定的にmdファイルを作って書いておき、それをデスクトップに並べるようにしています。
私はテキストエディタを画面いっぱいに開くことはまずないので(逆にWebブラウザは画面いっぱいに開くことが多いです)、だいたいデスクトップが見えています。そこに気に留めて置きたい事柄が置かれているわけです。
なんとなくCanvasと似ていますね。
もちろん違いはたくさんあって、Canvasの方がデータの取り回しや扱える情報は多いのですが、雑多ないしは暫定的なものを規定の理のどこにも所属させることなく、ひとまずデスクトップに並べておくという異なる経路の理を持っている、という点はtksさんの運用と近しいのではないかと感じます。
さらに言えば、最近の倉下は「もっとOSを使っていこうぜ!」という気概が高まっています。ここ最近、アプリケーションを起動するためだけの場所、とか、Webブラウザを開くだけの場所になりつつあったので、フォルダ・ファイル形式で保存することを含めて、OS回帰は面白い研究テーマです。
ところで、皆さんはデスクトップをどう使っています? もう壁紙を表示させるだけの場所でしょうか。それともウィジェットなどを配置されていたりとか? よろしければお話をお寄せください。





