欲するものは何ですか
たとえば、PKMという概念がありますね。Personal Knowledge Managementの略です。
昨今のデジタルノート界隈を引っ張っている大きな概念で、ググればさまざまなメソッドがそこで紹介されています。誰が一番この話題に詳しいのかを競争しているみたいで微笑ましいのですが、それはさておき、そのPKMを通して何を欲しているのでしょうか。つまり、何のためにPKM的なことをするのか。
もちろん、インフルエンサーたちは「なぜ今PKMが必要なのか」を説明するのも得意です。というか、そういうのが得意だからインフルエンサー足りえているとも言えます。その説明が実際的・合理的だからというわけではなく(それは10年後ぐらいに判断されることであって今すぐにわかるものではないでしょう)、説得的な文章を展開できることがインフルエンサーの要件なわけです(実際演技がうまい人が多い印象)。
で、それがどれだけ説得的な文章だからといって、そこで提示される理由が「あなた」の理由である保証はどこにもありません。むしろ、ちょっと残念なことを言えば、「あなた」の理由を差し置いて、提示された理由こそが自分の理由だと思えるような文章を展開できることがインフルエンサーの能力だとも言えるでしょう。
だから一回そういう「テキスト」を脇に置いて考えてみてください。PKMなるものに取り組むとして、自分はそれを通して何を求めているのだろうか、と。賢くなりたい? 知識が豊富でありたい? 単にノートを触っていると楽しいから?
別になんでも構いません。理由に正解も不正解もないものです。ただ、自分の心情にどれだけ則しているかがあるだけです。
あるノウハウを通して何を為したいと思っているのか。
これはとても大切な問いであり、だからこそ危険な問いです。なぜならその問いは「自分はこの人生において何を為すのか」というより大きな問いにつながっており、それは「自分が生きるとは何なのか」という実存的な問いにもパスが通じています。
はっきりいってそういう危険なものには触れたくありません。あるいは、ある程度準備ができていない段階では触れないほうがよいかもしれないとすら言えます。こじらせると面倒な穴にはまりこむからです。
だからこそ、僕たちは何の危険性もないノウハウそのものについて注目し、話題に挙げているという構図があるのかもしれません。それはそれで楽しいから別によいと割り切ってしまうのも一つの方法でしょう。
でも、もし何かしらの「効果」をあげたいと思っているなら、そういう問いに触れざるを得ません。恐る恐るであってもです。