読むリスト、見るカード
あくまで仮説です
一連の投稿を再掲します。
Obsidian Canvasは、通常のmdファイル群の理(ことわり)とは別の場所に置ける、という話を検討しました。
であれば、その理とは何なのでしょうか。
面への配置
Obsidian Canvasもデスクトップにファイルを並べることも、どちらも「面」に情報を並べる点は共通しています。しかも、グリッド的に固定的な配置ではなく、もっと”自由に”(これが何を意味するのかはさておき)配置できます。
厳密な配置ではない、という点でこれは「雑さ」の現れであると言えるでしょう。じゃあ、グリッド的に固定配置したらどうなるのかと言えば、それがNotionやObsidian basesやEvernoteのカードビューが提供してくれるものです。
これらは自分で情報を置いているわけではなく、単にソートされた結果が配置されているだけにもかかわらず、明らかに以下のようなビューとは違いを持っています。
ベースとなっている情報はまったく同じ。しかし、見え方が──もっと言えば並べ方が──違うだけで印象が異なります。
この違いは何なのか?
リストは情報が一方向にしか流れていないのに対し、カードビューは横と縦の二軸を使っています。それはその通りなのですが、その違いが何をもたらしているのか。
ここからは仮説ですが、その違いは情報処理のアフォーダンスを変えているのではないか。より具体的に言えば、リストは「読む」情報処理を、カードは「見る」情報処理をトリガーするのではないか。
カードの中身はもちろん「読み」ます。しかし、カードの並び自体は「見る」。一方で、リストの中身は「読む」であり、項目の並び自体も「読む」になる。WorkFlowyの再帰的無限性とは、「読む」の再帰的無限性ではないか。
文がカードに書かれ、平面に置かれることでその再帰的な構造が切断される。「見る」作用が入ってくる。それがカード(ないしは平面)を使う理なのではないかと、いまのところ考えております。




