自己紹介がわりにDTPの話をします
私は20歳から30代の終わり頃まで、グラフィックデザイナーという職業に就いていた。おもに印刷物を作るワークフローのなかで、企画やアイデアの立案、図形を作成したり色彩構成をするなどのデザイン業務を担当した。
今ではコンピューターでグラフィックアートを制作することが一般化している。手作業で作った原稿や版下(はんした)を見たことがない人や、想像できない人もいると思う。
私が社会にでた頃は、デザイナーが自分のデスクで使うコンピューターは無かったし、インクをつけて厚紙に線を引くような仕事が一般的だった。
当時の私は、三角定規や製図テンプレートなどで図形を描いたり、印画紙に出力された文字をカッターナイフで切り抜いて糊で貼りあわせたり、巨大なカメラのような機械に入って拡大した写真を鉛筆で紙になぞったり、色見本帳を参照してインキの塗り方を設定して、印刷会社の技術者に指示をわたすなどの業務をしていた。
印刷会社や製版所では、私の作った指示書や版下を基に、当時おそらく何千万円もした専用コンピューターで印刷の前工程を行った。
今なら、Adobeのソフトウェアと、PC、そして少しの周辺機器があればできる。
DTP誕生
もともとDTP(デスク・トップ・パブリッシング)は、デスク上のコンピューターの画面で作成したドキュメントが、そのまま近くのプリンターから印刷される、オフィス文書の作成のシステムのことを指していた。それまでは、文書は自分か秘書がタイプして、それを原稿としてオフィス内外の印刷機で版行していた。やがて、DTPは商業印刷のためのシステムへと変化していく。
資料を開くとDTPの開始点は、1987年3月にMacintosh IIとMacintosh SEの発売とされている。もっとも、扱う文字データが少ない欧文での話で、日本で本格的なDTPが実現したのは、1991年のQuadraシリーズが販売されてからとなる。
AppleやAdobeなどのセールス戦略で、DTPとMacintoshの未来は明るいように喧伝された。
しかし、黎明期のDTPは商業オフセット印刷機械を回すデータを作るには未発達で幼稚だった。それでも納期を守り納品できてはいたが、優れたシステムの成果ではなく、デザイナーや各部門のオペレーターが超過労働でフォローしていたからだ。
業界では、あちらこちらで専門職が、ゾンビのようにふらふらと疲れた体で働いた。そして、DTPでは求められるクオリティに達しないときに、助けてくれたのはそれを導入する以前の少し古い技術や機材、それらを扱う技術者達。彼らの仕事は、例えば機械が生成できないトーンのドットを筆で描き起こすなど、職人芸だった。
そのように、あたらしい技術のDTPと旧来のプリプレスの技術はしばらく共存していた。
しかし、Adobeはそんなプリプレス業界を巨神兵のように焼きはらってしまった。00年代には各社から職人が消えた。
デザインとデーター管理
DTPの経緯を紹介したが、そのように超過労働や技術衰廃などのブラック環境にあっても、コンピューターならではの表現力の多様さや、未来につながる感覚には魅力を感じていた。
コンピューターでデザインをする人が増えたことは、その後のウェブページ開発につながり、電子出版につながっていると考える。
私がDTPで気に入っていたことのひとつは、光磁気ディスクやCD-Rなどの一枚の円盤にデーターが収められたことだ。
それまでは大きな版下や指定紙などを束ねて大きな書類ケースに収納して、写真原稿(モノクロームは印画紙、カラー写真はポジフィルムのことが多かった)やイラストの原画は専用の紙袋に分類。大荷物を肩から下げて、夜の街をタクシーで移動したけれど、そのような気遣いは軽減され、ディスク1枚をデリバリーするか、ピア・ツー・ピアで納品先に通信で送るようになった。
納品後の管理も簡単になった。
そしてEvernote
さて、読者の皆さんご存知のEvernoteの話をしようと思う。私は、このように仕事の成果物や資料がアナログからデジタルデータに変化していく世界を生きてきたから、Evernoteを見つけたときは「これが自分の書庫になる」と確信した。2009年10月に利用開始している。
そして、Evernoteが10周年の謝辞を述べた2018年には、書庫を管理するモチベーションも失せて、米国の民家のガレージのように、一目ではどこに何があるか分からない魔窟ができあがっていた。
Evernote 10 周年 〜日本のみなさまに感謝の気持ちを込めて〜
https://evernote.com/blog/jp/evernote10th-message-for-japanese-users/