機械は状況を理解して仕事をしてるのか?
ゲームでの機械の強さは否定できない。どうして美術だと違和感が生じるのだろうか
takkii氏の投稿を興味深く読みました。
ツイートに返信して楽しい会話はしたものの、140文字の投稿の応酬では思うところを出しきれずに終わったと感じました。そして、時間が経ち考察することができたので、takkii氏の許可をいただき、引用を含めて投稿することにしました。
なお、takkii氏のスレッドは美術のみに留まらず、ゲームの話題や、ご自身の言語理解への興味などについても話されてました。しかし、本稿では主に絵画やアニメーションなどの表現について書き表したいと考えます。
人工知能 —すなわち「機械」の絵画表現
人工知能(以下、takkii氏のツイートに沿って「機械」と記す)の絵画表現では、稀に真っ直ぐであるべき構造物が曲がっていたり、ヒトの器官が変形して見えることがある。
「AI絵を見ると(中略)細部を見ると適当で理解してなさそう」と感じるのはもっともな事で、人は自分の見慣れたものが異形になれば、変だと思うだろうし、機械が造ったと知れば、エラーであると評価するだろう。それはとても自然なことではあるけれど……
著名な作品のエラー
それはともかく、漫画やアニメーションなどのキャラクターは、画家が意識的に変形しデフォルメして表現している。先のツイートで、私はそれを「好きに崩して描いている」と表現した。
もちろんヒトが描いた作品でも「エラー」は起こる。いや起こすというべきだろうか。有名な事例を紹介させていただく。
葛飾北斎の浮世絵で描かれる人物は、足指が6本のものが多い。北斎の時代にその症候が多かったわけでなく意図的なものと思われるが、未だに謎とされている。
1960年代の漫画、アニメーション作品『鉄腕アトム』は手指が4本で描画されている。この時代のデフォルメされたキャラクターにおかれては、数多くの作品で同型のデザインが採用されていた。
米国で制作されたカートゥーン・アニメキャラクターにも多く見られる。ミッキーマウスもそうだった。
北斎は贋作への対策として意図的にエラーを混ぜていたという研究がある。
漫画、カートゥーンの手については作画の工数を減らすためと、動画となればブレて指が増えて見えるから、あらかじめ少なく描くくらいで丁度よいと著名な漫画家兼アニメーション作家が発言していたと伝聞で得た。
機械は自己の作品を客観的に意識できるか
具象画であれば、数学的アプローチである程度は可能だろう。
例えば8頭身の人物を基準とし、格好良いものとして高評価をつける等々。
または、女子のスカートの丈をひざ上 XXcmで描画するとバリアブルに評価が変わるなど、日本のサブカルチャーで言うところの「萌える」二次元の評価レベルを作ることもできるのかも知れない。
しかし、それを開発するのはヒトだろう。だから一定のジャンルで自己評価ができる機械がいても、それは開発した技術者の評価の拡大コピーしたものではないだろうか。
そもそも現在では具象画よりも抽象画の方が多いのはあきらかだ。広告、出版、放送、映画など様々なメディアでおびただしい数の抽象画が公開され、見られて、そして消えていく。
そのような状況の中で、機械が描いていると言うものの開始と終了はヒトが指定しているのだ。機械が自己の作品を把握して定量的な評価をすることは難しいだろう。
もし、自己評価が可能になったとしてその時に、観客や読者たちと機械は良質な関係を築けるのだろうか。機械はヒトによい結果をもたらしてくれるのか。
もし、機械が今以上に人体や構造体の理解を深めて「正しい判断」に向かうとする。
すると『悪魔を倒す極めて強い男』という題目で生成されたキャラクターが「頭と両腕からチェンソーが生えてる。そんな人間はいない」と、異形のキャラクターがエラーとして破棄される事態が予想できる。
投稿者の見方
結局は、機械は理解して絵を描いてはいない。
そしてヒトもまた、理解して描いてはいないのでは。
私はそう考えた。
もし、ヒトが理解して描いているなら、いつかはその論理をトレースして人工知能に載せて、機械が理解を手に入れることもあるだろう。
しかし、ヒトの描く絵の崩し方は理屈ではなく、画家が「その様に描きたかった」……
それだけの理由ではないか。
あるいは機械も、自身で描きたいものを想い、描く術を身につけるならば、絵を理解したと認められる。私はそう考える。
そのような想いは、おそらくは感情と呼ばれるものだろう。
毒々しい姿の毛虫たち
ところで話題は変わるが、ずっと以前から疑問に思っている事がある。
俗に、毛虫や芋虫と呼ばれる蝶や蛾の幼虫は、毒々しい色彩と造形を纏っている。彼らはどうやってあの姿を手に入れたのだろう。
一般には、鳥などの天敵に捕食されにくいように、禍々しいデザインになったと言われているが、私たちヒトのように、鏡に写る自分の姿を見て「もっと派手にしましょう」などと、洋服を選ぶようにはいかないはずだ。そもそも幼虫の視覚はそんなに高くはない。
まして、ほとんどの昆虫は卵から孵化し幼虫になるとき、親は死んでいる。つまり「長子は大人しい色合いだったけど、次に生まれる子はもっと派手にしましょうね」と反省して改善する暇は無かったと考えられる。
しかし、なぜか幼虫は捕食者の鳥の視線を知っていて、対抗し自分を造形して生まれている様にも見える。仮に何万年もの経過の結果なのだとしても。
誰が彼の姿を見て、彼をデザインしているのだろうか?
最後に
虫が自分自身が見えていなくても、自分を造形できるとするならば、私たちも見れない想いを形にすることはできるのではないか。
そして、機械にも、それは可能ではないか。
そのような状況になったときに、それを機械と呼ぶのか、別の呼び方をするのか。私たちの仲間に招くのか。
それもまた興味を持てる事柄だ。
「神は細部に宿る」
私の好きな言葉です。



