異なるレイヤーの解決策
以下の記事を読んでいて気がつきました。
たとえば、人生においてすごく厄介な問題を抱えているとしましょう。家族関係とか、金銭問題とか、健康関係とか、何かそういったことです。
そうした状態においてはもちろん心は落ち着きません。イライラも募ります。ぜひともすっきりしたいところです。
まさしくGTDでは、というよりもその導入とも言える「洗い出し」ではそのイライラの解消が目指されます。「気になっていること」をすべて書き出す。あぁ〜、すっきりです。
でも、それは頭の中に溜まっていたメモリがクリアされたことによるすっきりであって、抱え込んでいる厄介な問題が片づいたわけではありません。何かしら行動リストみたいなものは作ったかもしれませんが、それだけです。問題解決に向けた具体的なアクションはまったく起こされていない状態です。
にもかかわらず、です。
そうしてリストを作ると、いかにも何かやった気がします。そういう気持ちが生まれるからこそ、すっきりできるのです。そして、しばらくはその問題のことを完全に頭の外に追いやれるのです。
しかし、実際はその問題は何も解決していないので、時間が経つとぶくぶくと上がってくる泡のように「気になること」が出てきます。イライラも募ります。そこで、また新しく「洗い出し」を行って、すっきり感を得る……、ということが繰り返されてしまう危険性があるわけです。
ようは、表面的なdoneによって、真に解決すべき問題(つまり「気になること」の発生原因と直接対峙すること)から遠ざかってしまうわけです。
ここでややこしいのは、そうした直接対峙においてもやっぱりGTD的なアプローチはたしかに有効ということです。状況を分析し、次に取り掛かる行動を明らかにする、というステップはないよりはあったほうがいいでしょう。しかしそのことは、GTDさえやっていれば、人生の問題がたちどころに解決することを意味してはいません。XがAにおいて役立つことと、XさえしていればAが解決することはイコールではないのです。
たとえば自分に肯定感を覚えられないとき、誰かに依頼されたタスクを十全にこなすことはひとときの充足感を与えてはくれるでしょうが、「他者評価への完全な依存」の状態が維持されているので、やっぱり肯定感を覚えるのは難しいでしょう。
ようは問題のレイヤーが違っているのです。目の前の具体的な問題を解決することと、より根源的でややこしい問題を解決すること。この二つは違うわけですが、人間の気持ちは何かしらの満足感を覚えたらとりあえずOKとしてしまいがちです。おそらくその点が、「get it done」的価値観の問題なのでしょう。つねに目先の問題ばかりに注目してしまう構図が生まれやすいのです。
チェックボックスをチェックしたくなる気持ちは私にも強くあり、これは馬とニンジンの関係に似ているのだと思います。それはたしかに「人を動かす」力がある。だからこそ、その力をどう使っていくのかは改めて検討しておきたいところです。動けばそれでいい、というわけではないのですから。

