文章の論理を磨く技術とアウトラインを練る技術
仕事柄、大学生たちのかいたレポートや論文原稿をよむ機会があります。
もちろん、ぼくの知っている範囲限定ですが、今(この5年くらい?)の20才前後の人たちのかく文章が、とくに1000字から2000字程度の長さのレポートなどで、よみやすく分かりやすいものになったように感じています。
これはすばらしいことだと思います。
その理由にも興味ありますが、今のところ、よく分かっていません。ぼくのしらないところ、たとえば小学校や中学、高校、あるいは予備校などの授業で、よみやすい文章をかくプログラムが取り入れらたのかもしれません。
あるいは、たとえば10代の人たちのスマートフォンをもつ割合が高くなり、SNSの文章やオンラインの記事にふれたり、SNSやチャットでのやりとりをとおして鍛えられたからなのかもしれません。
(SNSやチャットのような短い文章をかく頻度が高くなると文章が下手になる、と心配する声も以前はよく聞きましたが..)
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そして、よみやすい文章をかく人が増えたからこそ、よりはっきり見えるようになった、ちょっと残念な点もふたつあります。
文章全体をとおした論理の流れが甘いように感じることと、文章にアウトラインがないように見えることです。
このどちらも、いわゆる解説文や論文原稿をかいたりする場合には大切な要素だと、ぼくは考えています。そして、考えるためにかく作業とも関係するものだとも予想しています。
「論理の流れの甘さ」とは、文章をとおして表現される論理の流れに飛躍があったり、矛盾していたりすることを指しています。
なので、たぶんですが、かくことによって考えが進むはずのところで滞ってしまったり、論理的に誤った方向へ考えが進む可能性が大きくなっているかもしれません。後者は、それが必ずしも悪いものではない点が、少しややこしいのですが..。
「文章にアウトラインがない」というのはぼくの造語で、全体のアウトラインが練られていないままの文章、ということを指しています。
見かけ上は、小見出しをつけ、パラグラフもありますが、アウトラインが練られていない。なので、頭からひととおりすべて文章をよみ進めないと、せっかくのメッセージが読者に伝わらない場合もあるかもしれない。
文章を頭から終わりまで読まないとメッセージが伝わりにくいということは、解説文や論文の場合、少し損をする可能性もあります。小説や詩などの文章をよむ読者とはちがい、ざっとみて、あるいは途中までよんで、メッセージがうまく理解できない場合に、よむのをやめてしまう読者が少なくないからです。
(もちろん、この2つも解説文や論文をかく技術の一部であり、別の方法で、多くの読者を惹きつけメッセージをしっかり伝える解説文や論文の文章も数多くあることも確かです)
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上に挙げた、論理の流れを磨くことと全体のアウトラインを練ることは、文章のよみやすさや内容の分かりやすさにも繋がっているので、以前は同じ問題のように捉えていました。
でも、よみやすい文章をかく人たちが幸運にも増えたことで、論理の飛躍や矛盾に気づく技術、伝えたい論理の流れを多くの人に伝わるように構造化する技術を、よみやすい文章をかく技術とは別のものとして、多くの人が学べる機会をつくることが大切なのかなと、今は考えるようになりました。

