以下の投稿を読みました。
ライフ・アウトラインやそれに類する方法を取っているかどうかとは関係なく、他の人が「自分にはこういうネガティブ要素があって、それにこう対処することにした」という要素を具体的にどういう場所にどう整理しているのかが気になりました。
さて、自分はどうだったかなと、ノート類(アナログ・デジタル)を一通りチェックしてみましたが、上記のような記録は見つかりませんでした。非常に興味深いことです。私は考え事は何かしらに記述しているので、記述が見つからないということはそういう考え事をしていないことを意味します。
つまり私は、「自分にはこういうネガティブ要素があって、それにこう対処することにした」というような事案をぜんぜん持っていないわけです。
当たり前ですが、私が「我にはネガティブ要素などない!」とナポレオンばりの自信を持っているわけではありません。あるにはあるんだけども、そこにフォーカスすることがない、というのが近いでしょうか。
もちろん、作業でミスをしたら次回は確認を強化するようにリマインダーを設定する、といったことはやります。つまり、ネガティブな結果(つまり、失敗や不達成)にケアすることはしても、自分が持つネガティブな要素には──こういってよけば──特に注意を向けようとしていない感じで生きているのでしょう。
ただ、精神のリズムの不調でズンっと落ち込むことはあり、そのときはグズグズと考えが巡りはじめるので、そいうのは何かしらに書き出すようにしています。手書きのノートが一番それっぽいですが、そうでなければアウトライナーやテキストファイルに書きます。ようするにフリーライティング的なもの(ブレインダンプなども呼ばれますが、もっと粗雑なもの)です。
そこで指針めいたものが出てきたら、それだけを抜き出して指針ノートなんかに転記することもありますが、ズン・モードのときは明晰な考えができていることも少ないので、そこまで綿密に扱うこともしません。雑多に保存しておき、見返しのタイミングで目に入る可能性が担保できていればそれで十分かな、という感じがしています。
というのが、一応僕なりの答えなのですが、そもそもの問いかけが示唆に富むものでした。
たとえば、私は記録はある程度見返していて楽しいかそれに準ずる心の満足があった方がよいと思うので、たしかに「ネガティブなもの」の扱いは難しいように思います。実際、敬愛していた著名人の死亡記事などはWebクリップするかどうか迷います。今回のような内面に関わる要素ならもっとセンシティブな扱いになるかもしれません(一昨年、父がなくなったときは次の月になっても近辺の日記を読み返すのがしんどかったです)。
もう一つ思ったのは、切り口の違いです。たとえば、「自分にはこういうネガティブ要素があって、それにこう対処することにした」という構図は、私の情報整理構造ならきっと「こう対処したい」という一種の希望・欲望・願い・意志として立ち現れてくると予想します。
つまり何かしらの情報が立ちあわれるときに、フィルターを通すことで「もの」化するわけですが、私のフィルターはそこから希望・意志をファーストオブジェクトとして選択する傾向がある、という予想ができます。この予想はぜんぜん間違っているかもしれませんが、もしいくらかヒットするならば、そうしたフィルターの傾向がその人の情報整理の構造を決定づける可能性は非常に高いと言えるでしょう。
だからこそ、いろいろな人のノートを見るのは面白いのだと思います。