以下の投稿を読みました。
それまでとの最大の違いは「公開」していることです。Cosenseは公開か非公開かしか選べないため、公開するならすべてのページが公開されます。その結果、非公開のときよりも他人も見るかもしれないことを意識して書くことが増えました。おそらくそれによって書き方が変化し、楽しさが生まれているのだと思います。ここら辺の気持ちをうまく表現できないのですが、公開していることとCosenseの書きやすさが掛け合わさって楽しさに繋がっているのだと思います。
「他人も見るかもしれないことを意識して書くこと」。大切なポイントだと思います。
『考えの育て方』という本で私は以下のように書きました。
どうやら、言葉というフィルターを通すことで私たちの思考はずいぶんとはっきりしてくるうようだ。むしろ、そのフィルターを通さないかぎり、私たちの思考はいつまでもふよふよとした形で漂っているものなのかもしれない。 だからこそ、思考をしっかり固めておくためにも、〈他人が読める文章で書く〉ことが欠かせない。これが第二のポイントだ。
〈他人が読める文章で書く〉、これはつまり、ある程度の文法的正確さを意識し、省略しまくりではなくむしろ説明する気持ちを少し強めに持って、というようなニュアンスです。
さて、人の気分(モード)は意識の支配下にはありません。むしろ環境の影響をもろに受けます。それを考慮すれば、「〈他人が読める文章で書く〉モードになるには、他人が読める場所に文章を書く」のが手っ取り早そうです。
まず公開すること。それが前提になっていること。
これが出発点であり、さらに十分に言葉を尽くせる余裕があり(文字制限がなく)、SNS的な即時かつ数値的なリアクションからは隔絶されている、という二つの環境(これも環境です)の影響によって、Cosenseでのメモはいい感じに他人の視点を意識して書けるのではないかと思います(「これはもうちょっと言葉を補っておかないとな」などと発想するようになります)。
問題はこの「他人の視点」というものが一様ではなく、ぐちぐちいちゃもんをつけたり、他人の重箱の隅をつついていないと落ち着かないような人の視線も「他人の視点」と言えてしまうことです。
でも、Cosenseの日記ページをわざわざ見に来ている人はおそらくそういう人ではないはずで、そこに書いているときに形成される「他人の視点」というのは、なんとなくよい心理的な関係が築けているのだろうとも想像します。
科学の言葉に「観測者効果」がありますが、文章を書くときにも似たことが起こります。実際に目の前にいるわけではないけども、書き手がイマジナリーの中に据える視線・視点によって、何がどう書かれるのかが変わってしまう。すなわち「読者効果/reader effect」。
思考や発想を促すための「文章化」にはその効果を意識するとよさそうです。