以下の記事を読みました。
◇目次と索引とオブジェクト | Noratetsu House
記事が言わんとしていることからは離れますが、多分、「目次はなくても構いません」と思える人と、そう思えない人がこの世に存在しているように思います。私は思えない側の人間です。
ここを少し展開しておきます。
目次のない本
たいての本には目次がついているわけですが、そうでない本もあります。たとえば子ども向けの絵本なんかにはたぶん目次はついていませんね。短歌集とか俳句集でもそうですし、小説なんかもあるものとないものがあります。
短いものであったり、頭から最後まで通して受容されることが必定的なものは、目次的視点が必要なく、だったら作らないというのは自然な決定です。
あるいは、辞書。辞書も目次はありませんね。これは上記とは違い、辞書はそれ全体が「インデックス」だからです。インデックスそのものである存在。逆に百科事典とか図鑑とかは目次がついていると思います。
こんな感じで、たいていの本には目次がついているけれども、目次がない(なくても構わない)ものがある。
という意味で、「目次はなくても構いません」と書きました。つまり、特定の用途の”情報整理”においては目次はなくても成立する、ということです。逆に言えば、そうでない用途においては目次は必要だし、作れば活躍するということでもあります。
情報整理のさまざま
最近思うのは、人は生活の中でさまざまな情報を、さまざまな用途で用いているということです。買い物・旅行・事務/家政・勉強・研究・趣味……。それぞれの領域において、異なる目的を持った情報の利用がある。それはつまり、それぞれの形の「情報整理」が要請されることも意味します。
そうすると、目次的なものが必要な情報整理とそうでない情報整理という区分がありうる可能性があります。
では、どんな目的での利用が目次的なものを必要とするのだろうかと考えたときに、一つ思いつくのが「把握」です。何かを把握したい、という気持ちに応える情報整理は目次を必要とするのではないか。
それが一番出てきやすいのはいわゆるセルフマネジメントの領域でしょう。領域や状態を把握し、そこからの展望について考え、何かしらの意思決定を支援すること。この目的においては把握することは欠かせませんし、全体像を端的に把握するためには目次的なものが役立ちます。
たとえば思考実験として、自分が書き留めたタスクをすべて見ることができず、そのうちランダムに2〜3個だけ表示されるツールがあるとして──それはそれでタスクを進める役には立ちそうですが──、そうしたツールを使っていても満たされない何かがあるでしょう。言い換えれば、何かを把握しているという感覚は生まれないと思います。
もしかしたら「把握」という言葉の感じは強すぎるかもしれません。もっとラフに「掴んでいる感じ」でもいいです。掴んでいる感じ、掴めている感じ。そうした感覚の有無が、情報とのつき合い方に大きく関わってくる領域がある(そしてもちろんそうではない領域もある)。
というところから、情報整理という営みについて考えていきたところです。