勢いを感じる/勢いに乗る/勢いが余る
文章の勢いというものについての投稿を拝読しました。
私も自分なりに「文章の勢い」が何かということについて考えてみたいと思います。
「この文章は勢いがある」「勢いに乗って書き進んだ」「勢い余って失言している」、これらの「勢い」は果たして同じものだろうかと考えると、個人的には全部違うものを指しているように感じられます。
読んだ時に読者を引っ張る、あるいは振り回す力と、書く時に書き手の背中を押す力と、自分の中の偏見や諸々の軽率さを制御できない書き手の迂闊さとは、それぞれ別に考える必要があるのではないかと思うのです。
読んだ時に感じる「文章の勢い」とは何か。客観的に語る術がないので自分の感覚を言葉にするしかありませんが、例えば「力強さ」「繋がりの滑らかさ」「意表を突く展開」「内容の量が多い」「逸脱と復帰が繰り返されている」……といった要素をいくつか含んでいるものに対して「勢いがある」と感じているように思います。「勢いがある」と思っても、それがどういう種類の勢いかはその時々で違っているわけです。
強いて共通点を挙げるとすれば、「自分(=読み手)が想定する自然なベクトルとは異なる方向・量・速度で意味と意味が繋がれ、且つそのことに対して不快感を抱かない状態」だろうかと思います。
この「読み手にとっての勢い」は、前提として書き手にとって勢いがある文章でなければ実現し得ないものかもしれませんが(私にはそれを断定してしまうことはできません)、その一方で演出によって意図的に作る種のものでもあると私は感じています。自分がスラスラ書いたところで、読み手が乗れないのなら読み手の中に勢いは生まれないからです。たまたま書き手が読み手の視点と一体化した状態で書くタイプならば書いた時点で演出が完了しているということもあるでしょうが、基本的には効果を狙って作り上げるもののように思います。
今度は文を紡ぐ時に書き手自身が感じる「文章の勢い」を考えてみます。
まず、逆に勢いを失っているように感じるのはどういう時か。自分を振り返ってみると、「わかりきったことを必要に迫られて書いている時」「調べたものを頑張って噛み砕いて言葉にしている時」「予期しない読みをされないために予防線を張っている時」「そもそも自分でもよくわかっていないことを無理して書いている時」といった場合に「勢いのなさ」を感じます。そういう時は大抵文章を生み出すスピードも落ちますし、たとえスピードは維持されていたとしても気分としては書けば書くほど重たくなっていきます。
ではこのことを元に、軽快に勢いに乗って書いている状態が如何なるものかを考えてみると、私の感覚では「ほとんど全ての文が新たな意味を持っている」という状態だと感じます。その文章を通じて示したい結論に向かって進んでいるかはあまり関係ありません。新たに生み出す文が、そこまでに書いた文には無い意味を持っているかどうかです。
新たな文に新たな意味が宿っているということは、書き手にとっても書いた瞬間に新たな意味を得たことになるでしょう。言いたいことを再現するための文を書き、全体としてはそれを達成するものだとしても、そこに思いがけない新たな閃きが伴っていることがしばしばあります。頭の中のイメージ通りにそのまま書き表しただけでも、書く瞬間までその単語は思いついていなかったということがあれば、その単語によって次の新たな意味が生まれることもあるわけです。
書きたいという欲求を持って、あるいは書かねばという使命感を持って書いている人間にとっては、新たに表現し得る発想を得るのはこれ以上無い「快」ではないかと思います。そして往々にして、新たなものは更に新たなものを呼び込みます。そうして次から次へと文が生まれて繋がっていき、そこに「波に乗っている」「勢いが生まれている」という感触を得るのではないでしょうか。
ついでに「勢い余った文章」について自分で(勝手に)定義しながら考え直してみます。
通常その言い回しを用いる場合はあくまで慣用句として使われるので、実際には「何らかの勢いが余分にある」という意味ではなく、「程度が好ましい範囲から逸脱している」ということを示しているだろうと思います。適切にブレーキをかけないからそうなるのだ、というニュアンスを持たせるにあたり便利な表現ですが、別に「勢い余った」という表現でなくとも良いのだと思います。
慣用句としての意味合いは脇に置いて、先程考えたことを踏まえて「文章の勢いが余っている」という状態を考えてみると、「意味を新たに生み出し過ぎている」、つまり「意味が多すぎて本筋が曖昧になっている」ということなのではないか、と個人的には思います。内容を整理しないまま脱線を繰り返して、無目的に読んだり聞いたりしている分には楽しいとしても、結局どこに向けて何が言いたい話なのかよくわからないまま終わってしまう、そういうイメージです。
この意味での「勢いが余っている文章」は、必ずしも不適切とは思いません。それがプラスに働くかマイナスに働くかは時と場と状況に依るもので、主張を明確にしなければならない文章や講演でその調子では困りますが、エッセイや小説など自由に書くことが許される文章に於いては、むしろそういう形でしか生み出せない意味合いというものもあるだろうと思うので、積極的に勢いを余らせて書くこともあり得ます。普通は同時に発生しない複数の情報をほとんど一度に読み手に渡すことによって、それぞればらばらに渡されたのでは起こらなかった化学反応が読み手の中で生じることもあるでしょう。
考えたことは以上ですが、例えばこの投稿の文章は、書き手としての私にとっては勢いのある文章ですが、読み手にとっては文と文の間に飛躍(ポジティブな飛躍)を感じるものではないだろうと思うので(そういう演出を何も加えていないので)、勢いの程度としては概ね「普通」のものと思います。
私は「文章の勢い」というものをこのように解釈しました。