何を欲してそれを行っているのかを詳しくみる
あけましておめでとうございます。通常どおり仕事をしている倉下です。
以下の投稿を読みました。
というのは、全く同じ種類の情報を、おおよそ同じ目的・用途のために扱っていたとしても、Aさんはこのツールで満足するけれどBさんは納得できないということが起こります。厳密に突き詰めていくと「やろうとしていることが違う」ということになるのだろうとは思いますが、一般的に「用途」という表現では区別されないレベルでの違いが個々人にあるように思います。
きわめて重要な指摘だと思います。少し考えてみましょう。
まず「用途」という表現で一般的に理解されるものはなんでしょうか。「情報を整理するため」や「タスクを管理するため」あたりが思い浮かびます。
もちろん、ここには詳細度のパラメータがありえます。たとえば「自分のタスクを管理するため」とか「今日の自分のタスクを管理するため」と表現したら用途の細かさは違ってくるでしょう。
しかしそれ以上に注目したいのは、「情報を整理する」とか「タスクを管理する」という表現そのものが持つ多義性です。言い換えれば、どういう状態になっていればその人にとって情報が整理されていることになるのか、タスクが管理されていることになるのか。その内実が人によって違ってきます。
ある人は、最低限のことが忘れられなければそれでOKなのかもしれません。別のある人はMECEが徹底されていなければダメなのかもしれません。
そうした違いがあることが、「用語」や「概念」という共通の用語を使っている場合に見えにくくなるのです。しかし、共通の用語を使わない限り「対話」はできません。ここにこの手の話、強いて言えば「個人的なノウハウ」にまつわる話の難しさがあります。
もう少し考えてみましょう。
カテゴリとして分類したとき、同じ「目的・用途」に位置づけられるけれども、そこで欲されているものがズレているという状況は間違いなくあります。たとえばそれは人によって「勉強」という言葉の内実が違っていることから容易に推測できます。
何かを暗記することが「勉強」な人も入れば、体系的な理解を得ることが「勉強」な人もいるでしょう。だとすれば「勉強のため」という目的を掲げたとしても、その二人が同じ話を成立させられるかはひどく疑問です。
以前までの私はこういう状況にやきもきしていて、何か統一的なものを持ち出して、皆がその言葉を使えばいいのに、と思っていました。しかし、どう考えてもそれは支配的な試みです。
最近の私は──ウィトゲンシュタインの哲学に触れた影響が大きいのでしょうが──、別のように考えています。すなわち、「ぜんぜん別のことをしている人が、たまたま同じ言葉を使っていることで、交易のようなことが起こりえている」と捉えているのです。つまり、すれ違いというのはそもそもの前提であって、それはもう仕方がないし、それによってデリダ/東浩紀が言う”誤配”の可能性も生まれているのだろう、と。
ということは、可能なのは共通的な(つまりよく使われる)用語を使いながらも、その内実の詳細を明らかにしていくことでしょう。
たとえば「タスク管理」という言葉の意味は、もはや混乱を通り越して混沌状態になりつつあり、極限的に「タスク管理とは、タスクを管理することです」というトートロジーしかはっきりしたことは言えないわけですが、それでも、「〜〜のためのタスク管理」という言い方で、文脈を限定させ、内実の詳細を明らかにすることは可能ではないかと考えています。
「一つでも実行タスクを増やすためのタスク管理」
「上司に認めてもらうためのタスク管理」
「心の落ち着きを取り戻すためのタスク管理」
もちろん、どういう状況であれば「心の落ち着きが取り戻せるのか」というところにやはり個人差は残ります。それでも、1万人いたら1万のまったく違う方法が広がっているわけではないでしょう。ある程度の集合は見出せるように思います。のらてつさんが挙げられていた「掴みたさ」の強度といったものも集合を構成するパラメータになると想像します。
もともとは目次の必要性の話からはじまりましたが、それも
情報の全体を把握しておきたい情報整理
必要なものがだいたい見つかればOKな情報整理
とりあえず保存だけしておく情報整理
のような切り分けが考えられるでしょう。
まだぜんぜんまとまっていない考えではありますが、「情報整理について情報整理する」というコンセプトに大きなヒントがいただけた気がしております。