不条理な配牌と次の一手を決めること
倉下は、おおむね本・音楽・ゲームの三成分でできています。
で、本の話はけっこうしているのですが、音楽やゲームの話はあまりしてこなかったので、ここではゲームの話を。
ゲーム成分には、遊技的なものと賭博的なものがあります。また遊技的なものにも、ビデオゲーム的なものとボードゲーム的なものがあります。麻雀は、ボードゲーム的賭博的ゲーム、というやや位置づけが複雑な可能なゲームです。
で、倉下の青春の多くはこの麻雀というゲームに注がれました。
麻雀は、分類的にはボードゲームであり、囲碁や将棋と同じような位置づけになっています(書店では似たようなコーナーに並んでいるでしょう)。しかし、それらのゲームと麻雀は大きく異なる点が二つあります。一つは、対戦相手の数。囲碁や将棋は2人で行いますが、麻雀は4人で行います。簡単に言えば倍なわけです。もう一つの違いが、情報の開示で、囲碁や将棋は完全情報(すべての情報がすべてのプレイヤーに開示されていること)ですが、麻雀は不完全情報となっています。
この二つの違いが決定的に大きく、それが麻雀というゲームの面白さを支えています。
さて、麻雀というゲームは不条理です。どれくらい不条理かと言えば、4プレイヤーの初期の手牌(配牌と呼びます)が、皆それぞれ違うのです。たとえば囲碁であれば(ハンディキャップがなければ)どちらも石を一つも置いていない状態からゲームがスタートします。実に平等です(実際は先攻が有利なので後の結果計算で若干マイナスを食らいます)。
将棋も同じくハンディがなければ二つの陣の駒はまったく同じ状態からスタートします。片方だけ飛車が二つ在ったり、銀将の代わりに金将が置かれていることはありません。同じ条件からスタートするのがこうしたゲームの基本です。
それに比べると麻雀は超理不尽です。ある人はあとちょっとで高得点の手が完成する配牌が入っているのに、別の人はめちゃくちゃがんばってやっと安い手にしかならない配牌が入ってきます。たまに他の人がやっているのを後ろで眺めていると、その理不尽さに強く驚きます。運というのは当然のようにあるわけです。
私の人生観はその麻雀によって育まれているので、一人ひとりが違った状態からスタートするのはごく当然のように感じられます(むしろ囲碁や将棋がかなり特殊な状態に思えます)。そして、違った状態からスタートするからこその面白さも感じます。
麻雀は配牌もランダムで理不尽なのですが、その上「次に自分が引いてくる(ツモると言います)牌」も伏せられています。つまり、次に何がくるのかわからない状態で、今どうするのかを決めなければなりません。そこでは確率論はかなり役立ちますが、完全な保証にはなりえません。16枚残っている可能性がある牌と、2枚しか残っていない牌で、後者を先に引いてくることだってありえます。
だから決めなければなりません。さまざまな可能性と方向性の濃淡を見極めて、自分の一手を選択するのです。そこにはどうしても意志が必要になります。
倉下の「タスク管理」的な考え方は、この価値観が主軸になっています。この先何が起こるのかはわからないというのは前提で、その中である程度確率論を見据えながら、最後は意志によって自分の行動を決めること。そういう行為の積み重ねの先に何か実るものがあるのだと信じること。そういう考え方が背景にあるのです。
もしタスク管理を将棋的な「先読み」でやろうとしたらすごく疲れると思います。自分がこうしたら相手がこうしてそれにたいして自分もこうして、のような再帰的な構造は脳が単独で情報処理をするのには向いていません。そうではなく、だいたいありえそうなことを見据えた上でどうするのかを「決める」というやりかたをするのです。「正解を出す」のではなく「決める」。その感覚です。
もともとが博打の感覚なので、「必ずうまくいく」とはまったく思っていません。しかし、少しでもうまくいくように努める、ということはやっています。その微妙な感覚の違いが存外に大切なのではないかと一人の麻雀好きとしては思っています。