ブックカタリストでごりゅごさんと話していると、欲求の形がふたりでずいぶん違うなとよく感じます。
先日は、私が構造化の欲求があり、ごりゅごさんが体験の欲求があるということに気がつきました。
ここで「欲求」と呼んでいるのは、あるものを好ましく思い、そちらの方に向かっていこうとする心理的傾向のことです。私はまず構造に注目し、構造で理解し、構造を作ろうとする。一方でごりゅごさんは、まず体験に注目し、体験で理解し、体験を作ろうとする。
もちろん、これはあくまで強度の話であって、ゼロイチな性質の線引きではありません。私にも体験に注目する部分はあるし、ごりゅごさんが構造に注目する部分もあるでしょう。ただ、その強さが違っている、という話です。
で、ここで考えたいのはそうした知的処理の傾向の違いが、「知的生産」という営みにおいても違いを生み出すだろう、ということ。
たとえば、私の場合、アイデアメモを集めたら、それを構造化したくなります。それができないと落ち着かない気がする。だから、私の知的生産のプロセスではどこかしら構造をコンポジションする必要がある。タイムライン的にただ流しっぱなしだったり、ネットワワークでリンクしているだけでは、どうにも物足りない。そういう傾向が出てくるのです。
逆に言うと、そうした傾向は私が持つ欲求に呼応するものであって、森羅万象に通ずる真理ではないでしょう。別の欲求の形があれば、別の営みがありえます。
よって自分の営みを適切に(あるいは機能的に)デザインしていくためには、自分がどういう処理を好み、求めているのかを知ることが存外に大切かもしれません。
皆さんはいかがでしょうか。並べ、増やすのが好き? 小さくまとめるのが好き? 構造を作るのが好き? 一つの流れで体験を語るのが好き?
たぶんいろいろあるかと思います。