インボックスを飛ばしたほうが良いわけではない、ということ
昨日私が書いた記事と、その後倉下さんがお書きになった記事について、以下のように言及いただきました。
その通りだな!と私は思いました。
まず私の記事との関連について
倉下さんは記事の中で、
「手間をかけることの価値」を確認することであり、行き過ぎた省力化への警句について考えたいのです。
と語っておられます。私がEvernoteを使うに当たって決定的に失敗したのは、その当時この点に無自覚だったことによります。ちなみに私は当時の状態について
掃除機のようにしてそこらへんのをただ吸っただけだ。
というふうに思っています。よくも見ずにただ吸い込んだということです。
「多分必要」「多分価値がある」というような、弱々しい判断らしきものをしているがゆえに、多少は意識を向けたかのようなつもりになっていたわけですが、実際には何も考えていないに等しかったように思います。情報を見た時点で何かを「思った」かもしれませんが――いや、「感じた」に過ぎないかもしれません――少なくとも、「考えた」わけではありません。
やはり、自分の価値観というフィルターに、それも反射的に浮かぶような表層(≒システム1)だけでなく、自分という人間の人生の文脈が作っている厚い層(≒システム2)に通して考えることが必要なのだと思います。雨昇千晴さんのツイートにある、「我」を立ち上げる行為としての「思う」というのはそういうことかなと思いました。
全てに対してそんな判断はできない(そうする必要がない)にしても、全てを「感じた」ということの反射で処理してしまうと後から困ることになる気がします。
インボックスについて
GTD的な(GTDだけに限らない)「インボックス」に対し、システム2を働かせる機能として意識したことはありませんでした。しかし言われてみると、そういう機能を見出さなかったのが不思議なくらいに「それはそうだな」という納得感がありました。
これまではインボックスをゼロにしたいという気持ちが強くなり過ぎるあまり、より早くインボックスが空になるやり方をしたいというようなことを考えてしまっていたような気がします。インボックスを飛ばして直に然るべきところに配置できるならその方が良い、と無警戒に認識していました。(積極的にそう信じていたというよりは、何も考えていなかったのでさっさと飛ばそうとしていたという感じです。)
そうやって「インボックスをゼロにしたい!」という気持ちに追い立てられた状態で、果たしてレビューがまともに出来ていたのかと考えると…。特に自分個人にしか関わらないようなことについては、どんどん投げやりになるばかりです。一番自分自身が適当に扱われてしまっていました。
なおインボックスを飛ばしていいかどうかというのは、つまるところ、発生した時点でインボックスを飛ばしてもインボックスのレビュー時に出す判断と変わらないという確信があるかどうかだろうと思いました。行き先が自明ならばそれは当然飛ばしてもいいだろうと思います。杓子定規に「必ずレビュー時に処理しなければ」と決め込む必要はなさそうです。現実的に考えても、無意味にインボックスを膨らませてはレビューが大変なことになるだけでしょう。
少しでも迷うなら、つまり「うーん、まあいっか」的な判断をしてしまいそうなら、それはインボックスに入れておいて然るべきタイミングでレビューをするのが賢明のように思います。自分に何を問うべきかということは、「よしレビューをしよう」と気分を整えたり、他のものを処理していく中で調子づいたりすることで明確になるようにも思います。
倉下さんの記事では、項目を取り出した時点で「『自分は健康診断を受けるべきなのか、受けるとしたら個別なのか集団なのか。タイミングはいつなのか』を考えることになる」とあります。その問いが、「これは『気になっていること』である」と反射的に判断した時点ではすんなりイメージされなかったけれども、インボックスのレビュー中なら当たり前に出てくる、ということがあり得るように思います。
「効率化を求めすぎない」「ゆっくり考える」ということは昨今の時勢を受けて常々考えていることではありましたが、「インボックス」にその役目を見出したことは(何故か)ありませんでした。なるほど、と感動したのでつい記事を書いてしまいました。