この記事はこちらの記事へのレスポンスです。
ブログ記事にご感想をくださりありがとうございます。はじめの方では身に余る賛辞をいただき、大変恐縮しております。
自分なら違うデザインにする、とお書きになっている二点についてお返事を書こうと思い、コメントではなく記事の形で書くことにしました。
Goさんと私の感覚の分岐点になっているであろう点として挙げてくださっているのが、次の二点でした。(勝手に換言して書きますがお許しいただきたく)
凝っていて複雑ゆえに飽き性だと続かないかも
ログは重視してないから要らないかも
実のところ、「私もそう思う!」という気持ちです。というか、私もそうなので、これまで使ってきた全てのツールが続いていなかったりします。似た複雑性のツールは数多ありますが、それらはその複雑性ゆえ継続は悉く挫折しました。なぜなら、ツールの複雑性がそのまま私にとって複雑だからです。
ところで、「違う考え」を提示していただいたことに対する返答の形なので、変に緊張を呼びそうだなと心配していますが、全然反論や弁明などではなく、Goさんのご意見を元に私自身の解像度を上げることを試みようと思っています。お返事と書きましたが、ほとんどただ自分語りをすることになりそうです。
突然ですが、私は極度の飽き性です。だいたい三週間または三ヶ月サイクルで「形式」に対して飽きてしまい、種々のデータがばらばらの形式であっちこっちにあります。
飽きる理由は多分いくつかあって、「理想の格好良さに沿うべく無理している」ということもありますし「傾けられるエネルギーに波がある」ということもあり、そもそも「ただ飽きて続けられない」ということもあります。経験上、「ただ飽きる」のは「自分以外の人間が作った事物」に対してより高確率で発生します。というか必ず発生しています。偏屈過ぎて、自分以外の存在の感性に合わせ続けていられないのです。
あとは、「より良いものを思いついてしまった」ということも大きな原因になります。そうなると現行のやり方は全く気に入らなくなってしまうからです。「モノ」には愛着もわきますが、私の場合「やり方」には全然そういう愛着・執着を抱くことができないのです。
あまりにも飽きっぽくて生活にある種の支障が出ているので、自分の「飽き」について随分詳しくなってしまいました。すぐ飽きる自分に悩まされているのが嫌で、「じゃあどうしたら飽きないんだよ」と問い続けている状態です。
飽き性である自分に対してできることを考えた時、「飽きないようにする」と「飽きても良いようにする」の二通りのアプローチがあるでしょう。
「飽きないようにする」にはどうしたらいいか? 具体的な方策は人それぞれの性質次第ですが、私の場合は上述したような理由があるので、
格好良くするための無理をしないようにする
熱意の多寡に影響されないようにする
(人が作ったものは確定で飽きるので)自分で作る
の三点が対策になります。
一つ目を言い換えると、「無理をしないと格好良くならない仕組みは駄目」ということでもあります。これは特に汎用的なツールを使う時に発生します。紙のノートでもそうです。私は情報のレイアウトを超が付くほど重要視していますが、自分が望む見た目を作らんとして、記入するたび認知資源を使う必要があるのがまずいのです。なので、JavaScriptの力で自動で整えてもらうことにしました。
二つ目の達成には、やる気に満ち満ちている時でなくても維持できるような簡単さであることが必要です。私の記事を読んでくださった方は、多分ツールの見た目が複雑そうなのでここがネックになるとお感じになったのではないかと思いますが、むしろここを確実に解消するためのあの複雑さ(仮)なのでした。
あんまり具体的に書くとさすがに冗長なので割愛しますが、例えば「作成画面を開いてから必要項目をチェック」だと面倒くさくて絶対飽きるので「この項目をチェックした状態で作成画面を開く」というボタンを設置する、というようなことをしています。普通のタスク管理ツールは「作成画面を開いてから情報を編集」にならざるを得ないと思いますが、それだと私の場合100%飽きることを知っています。
なので、裏で動いている処理の複雑さや見た目の「なんか選択肢と記入欄が多い」という印象とは裏腹に、「私の動線」からすると逆にシンプルになっています。これは私が作って私が使っているからのことであり、それぞれがそれぞれの設計をしないと意味がないところだと思います。
ここまでは「飽きないようにする」ための対処法ですが、「飽きても良いようにする」ことも必要になります。自分以外の人が作ったツールには必ず飽きますが、じゃあ自分が作ったツールには飽きないかというとそうとは限りません。最初の方で書きましたが、「より良いものを思いついてしまった」が発生したらもうおしまいです。そしてそれはしばしば発生します。(思いつくこと自体は喜ばしいことです。)
何かのシステムでやっていて飽きた時に困るのは、そこまでの形式で作ったデータが他のツールにそのまま持ち越せないことです。しょうがないので新たに始めることになり、まあ結局はそんなに生活に支障はないのですが、気持ちとしてはかなりの不満を抱える羽目になっています。ツールを替えてしまえばそれまでのデータは参照しづらくなり、バックアップデータを残したとしても、それらはもはや「記録」ではなく「残骸」になっています。
やりようは技術次第で色々あるかと思いますが、私の場合は、JavaScriptで処理をしているのでJSONファイルが救世主になりました。今後も自分でツールを作ることが前提になってしまいますが(それは私の中では先述した通りもう前提なのですが)、見た目や編集の方法に飽きるとしても、必要なデータの種類はあまり変わらないことから、JSONファイルを使い回せばツールを替えてもデータを持ち越すことが可能です。
実際、(タスク管理ではないツールですが、)データはそのままにツールの設計を大きく変えて作り変えたものがあります。新旧ツールの間に一応互換性があるということです。やがて改良の末に旧ツールには戻せない形になることはありますが、大事なのは旧→新の移行なので、逆向きの可否は重要ではありません。(それも旧ツールを弄ればどうにでもなります。)
長くなりましたが、「飽き」についてはこのくらいで、次はログの話です。
一応ずっと何かしらの形でログを取っています。飽き性ゆえにログの形式はバラバラです。というか、どこにいつのログがあるのかももはや定かではありません。どこかにはあるはずですが、取り出してくるのは容易ではない状態です。とても不本意です。
そもそもログが必要かというと、正直なところ、情報としてはあんまり必要性は感じていません。よく自分の傾向を振り返るために記録を見返すというような話を聞きますが、私はそういうことはほとんどしません。あまりにもフォーマットというものに飽きるので飽きる周期はどのくらいかを知るために見返したことはありますが、多分、それだけです。そしてタスクの実行記録に至っては、全く役に立った記憶はありません。記録を活用していないのです。
でも、私はこれからもログを取ります。データがどこにいったのかさえもはや判らないにもかかわらず、これまでログを取っていたことは私には大きな意味があります。
以前、私は精神の健康を損なってほとんど何もできなくなったことがありました。虚無感、無力感、無能感に襲われてまあ大変だったのですが、それ以来、頭の中を「私は何もできていない」という認識が埋め尽くすようになりました。今もそうです。多分一生残る後遺症だと思っています。(回復する人もいると思いますが、私には恐らく死ぬまで残ります。)
仕事をする、何かを書く、というようなことをすれば、もちろん私がした何かが世界や誰かの中には残るのですが、それを自分自身が認識していられないと「私は何もできていない」ということが私の中では真実になってしまうので、「私はこの日これをした」という証明書を自分に発行するために毎日ログを残すのです。私の脳は私自身がしたポジティブなことを忘れたがっているようで、一目で把握できる形で書き留めないと容易く「なかったこと」になってしまいます。そのくせネガティブなことは絶対忘れてくれない残念な脳です。
証明書を発行してしまえばあとは安心してその証明書は放置です。ちゃんと生きている感を実感したい時だけ眺めています。
盛大な自分語りになってしまいました。個人的なこと過ぎて自分のブログにすら書く機会を見出だせていなかったことですが、えいやと書いてみました。
もしかすると他の人の目には私が如何にもシステマティックなものが好きそうに映っているのではという可能性を感じなくもないのですが、実情としては、多分全然そうじゃないのだと思います。システマティックに生きなくて済むシステムを作ろうとしているような気もしています。
やっているのになかったことにしてしまうことを防ぐために記録する、という新しい視点を得ました。ありがとうございます。