以下の記事を読みました。
◇Noratetsu House: Capacitiesのマイオブジェクト④ Yearly Note
まず、この記事を読んで私もYearly Noteを作ってみました。なかなかいい感じです。あと「Capacitiesでは何日から何日までという期間のリンクを貼ることができる」というのを知らなかったので、活用させていただいております。多謝。
で、本題。
Capacitiesを使い始めた当初、トップページとかホームにあたる場所が欲しいと思い、「Home」と名付けたページを作りました。基本的にはDaily Noteを開きっぱなしにしてはいるのですが、毎日流れていくものなので固定された場が別に欲しかったのです。
デイリーベースシステムにしていると、「一日」という単位を越えて扱いたい(扱い続けたい)情報の行き場がなくなるので、どうしても上記のような欲求が出てきます。
で、実際に作ってみるのですが、なかなかうまくいきません。
しかしながら、そう思いながらもHomeを開くタイミングがそれほどなく、どんな内容がHomeに欲しいのか自分でよくわかっていないような状態でした。
私もいわゆる「ダッシュボード」としてイメージできるようなページを散々作って、結局しばらく経ったらまったく使わなくなる、という状態を繰り返していました。「ホーム」的なものの必要性は感じるのに、うまくそれがデザインできないのです。
で、重要なのが以下の部分。
「Home」というページの問題点のひとつが、ホームとして適切な状態であるように更新し続けなくてはならないことでした。いや、もちろん本当の意味で「そうしなければならない」わけではありませんが、アクティブなページとして意味をなすにはメンテナンスが必要なわけです。で、要らなくなったものをえいやっと除去していければいいのですが、なんとなくそうしがたいことがしばしばあります。
そうなのです。「ホーム」って編集が難しいのです。便利だからとアイテムを増やすのは簡単でも、削るのが難しい。だからといって、増やし続けたら合成の誤謬的に利便性も落ちてくる。
結果、「なんとなく」の惰性で残っているリンクなどが散らばっているだけの状態になって、そりゃ見たくなくなるよな、という感じになります。言い換えれば、「今の自分にとってのホーム」というものではなくなってしまうのです。
消すべきなのに、消せない。
そういうときには「消さないで消す」が最適です。つまり、新しいものを作ってしまう。必要であれば、新しいものと古いものをリンクでつなげておく。そうすれば、いつでも古いものにアクセスできます。
なぜ、古いものを消したくないのか?
思うにそれが一つの「足跡」だからでしょう。その時点では、たしかにそのアイテムは自分にとって意味があった、という記録なのです。デジタルで編集したらそうした痕跡すらも一切合切消えてしまいます。大きな手で、歴史という川をえぐり取るような蛮行……というとやや大げさですが、それに近いいやな感じを覚えるのはたしかです。
そうしたときにたどりついたのが「拠点」という言い方です。Home→家、ではなく、base→拠点。
ホームというのは、イメージとして固定的であり、言葉通り「いつでも帰ってこられる場所」です。一方で、拠点は似たような機能がありながらも長期固定的ではありません。時間が来たら移り変わる可能性があるというニュアンスが言葉そのものに内包されています。
つまり、私がObsidianで作っている拠点ノートというのは、時限式ホームノートということなのです。
そのように概念をシフトさせると、二つ嬉しいことがあります。
一つは、毎月のタイミングで拠点ページを作り直すので、「今の自分」にあったものがそこに存在するようになること(≒手法を進化させられる)。もう一つは、古くなったものであっても、ちゃんと過去の拠点ページとして残されていること(≒ログが残る)。この二つです。
もちろんこれは週単位で行っても、のらてつさんのように年単位で行ってもよいでしょう。ようはその人の時間感覚において、「日」(デイリー)よりも大きい、しっくりくる単位を見つければいいわけです。
じゃあホームノートはまったく存在しなくていいのかというと、別段そういうわけではありません。自分が情報を扱う上で絶対に必要になる、それは変わらない、みたいなもが見出せているならばそれを置く場所として作ってもいいでしょう。また、Obsidianの場合は、いろいろなベースノート・インデックスノートへのリンクを集めた場所として運用することも考えられます。なんにせよ、きわめて編集可能性の低い場所として扱うのがよいかと思います(Workflowyはまた別の考え方が必要です)。
ともあれ、デジタルノーティングにおいて、「ノートを時限式にする」という考え方はやはり有用なのだなと確認できました。これは一つのメソッドとして扱っていいのではないかと考えております。