整えられたリアル
Re:visionのアナザーサイド
下の記事を読みました。
「アウトライナー的」な文章の感覚と実用性|Tak. (Word Piece)|note
(3段落目以降は有料なのでご興味あれば購読をどうぞ)
自分としては、「ああ、この文章はアウトライナー的だな」と思ったことはありません。それは、私がこれまで読んできた文章すべてが非アウトライナー的だった、ということではなく、単に私の物差しに「アウトライナー的かどうか」が存在しないだけです。
では、私が持つ物差しにはどのようなものがあるのかと言えば、「読みやすいか、面白いか、役に立つか」です。基本的にこの観点からしか本を測っていない気がします。でもって、この観点は私が目指す本の指標でもあります。外側へのまなざしと内側へのまなざしは呼応しているわけです。
ともあれ、自分の中に存在しない物差しについては想像するしかなく、一種の翻訳的飛躍が生まれることを念頭においた上で考えてみると、上記の感覚はたとえば私の言葉でいえば「リアルな文章」ということになるのかもしれません。整えられたリアルな文章です。
もうこの段階で矛盾のにおいがしてきます。整えられていないそのままこそが「リアル」なのではないかと。それに手を入れるならアンリアルな存在に変貌するのではないかと。
たしかにそれが「ドキュメンタリー」的な編集ならば懸念通りの結果になるでしょう。そうしたものはリアルの一側面を描いてはいますが、それはそれとして「ドキュメンタリー」として整えられています。リアルそのものではありません。
でも、思うのです。何一つ手を入れられていない、ありのままの形が、本当に「リアル」と呼びうるのだろうか、と。
文章の執筆に話を限ります。
私たちが文章を書くときには、何かしらの鋳型を参照します。頭の中に保存されているイマジナリーな鋳型です。
文レベルですら、ゼロから創造することはありません。脳内に蓄積された「こういうことを言いたいときには、こういう文を書く」というパターンが参照されているはずです。
それと同じことは構想(章立て)レベルでもおきます。こういうことを表す文章であれば、最初にあれを書いて、次にこれを書いて、最後にそれを書く、といった構造が脳内のパターンから参照されるわけです。
このパターンは、基本的に「イデア」です。理想や理念です。つまり、リアルなものではありません。私たちが感じている現実のあれこれは、そのイデアには収まりきらない姿をしているものなのです。
私が言う「リアルではない文章」とは、イデアのままの文章ということです。「かくあるべし」の状態のまま生成された文章のことです。
ということは、リアルな文章とは、イデアから抜け出て、「収まりきらないもの」をなんとか表現しようと奮闘している文章、ということになるでしょう。
でもって、そうして奮闘する姿こそが、人が生きることのリアルなのではないかと、そんな風に感じます。

