どんな言葉で日常を満たすのか
以前書いた投稿にBeckさんがレスポンスをくださりました。ありがとうございます。
「コメントではなく投稿で」とお願いした意図を汲んでいただき、実にニュアンスがよくわかる投稿になっています。たいへん面白く読みました。
僕は思想というのは言葉の節々に染み出てくるものだと思っていて、ちょっとした表現が気になってしまいます。たとえそれがそれほど強い意図を持っていなくても──フロイト的に言えば、強い意図を持っていないがゆえに──、表してしまうものがあるのではないか、と。
だから発端の投稿をしました。何が正しいとか間違っているかではなく、そこにどんなニュアンスが込められてたのかと聞くために。
というのも、私たちは器だからです。中身を注ぎ込むためのもの。生まれたときから、私たちは空っぽの容器であり、そこに言葉やら価値観からが注ぎ込まれて、それを自分のものとします。すべては外部から得られたものなのです。
でもってそれは大人になっても変わりません。私たちは日々目にし、耳にするものから自らの価値観を立ち上げます。テレビや新聞だけでなく、SNSやらブログやらニュースレターやらもそこには含まれます。
発端となった以下の言葉も、
「やりたいことがこんなにも少ないなんて・・・自分はなんてつまらない人間なんだ」
これ自身が一つの価値観を表しており、それを目にした人の無意識に忍び込んできます。たぶん、口頭であればもっと冗談っぽくおっしゃられたのでしょう。その場合はきちんとアイロニーとして受け取られたと思います。でも、そのニュアンスが伝わってきませんでした。だからちょっと聞いてみたかったのです。
自己啓発書を何冊も読んでいると、その文章の節々から染み出してくる価値観が読者の中に染み込んできます。説得的な文章でなくても構いません。文章に埋め込まれた「何を良しとし何を良しとしないのか」という価値判断が容器としての私たちに注ぎ込まれるのです。それが僕やBeckさんが長年患っていた「自己啓発の罠」の主因なのだと思います。
だからこそ、こうして他の人に読まれる文章は、あるいは似たような興味を持つ人が読む文章は、そうでない言葉で満たしていきたいと考えています。それが自分自身を、引いては周りの人をつくる素材になりうるのだとイメージしながら。