"自分"のことも知りたい
「汝自身を知れ」(γνῶθι σεαυτόν)は古代ギリシャの格言で、哲学者ソクラテスが大切にしていた言葉だと言われています。
もちろん、すでに知っていることをさらに知ることはないわけですから、私たちは自分自身のことを知っていない、という前提がこの言葉にはあるわけです。「無知の知」の前段階にいるわけですね。
ここで問題になるのは「汝」とはなんぞや、ということです。別の言い方をすれば、何を知れば「汝」を知ったことになるのか、という話。身長や体重、引いてはDNAの構成でしょうか。それとも、脳のニューロン活動を完全に記録したもの? 自筆の日記や完全自動のライフログ?
すでにこの時点でさまざまな議論ができるるでしょう。それがつまり「汝自身を知れ」という格言の機能なわけです。それを知ろうと取り組みはじめたとたん、私たちは「何を持って自分とするのか」という定義すら曖昧であることに気がつく。哲学的なマッサージ機能がこの格言にはあります。
さて、卑近な話をすると、私は私のことを知りたいなと思いながら生きています。たとえば、どんなことに面白さを覚えるのかとか、ある種の出来事にどう反応するかとか、そういうことを知りたいという気持ちがあります。別にナルシシズムというわけではありません(たぶん)。一人の実験観察者のような視点で、「この生物、どういう反応を見せるんだろう」と関心を持っている感覚です。単に、心境について一番リアルに観察できるのが「自分」という対象というだけであって、そこまで自己に(つまり倉下忠憲)という存在に愛着があるわけではありません。脱げなくなった着ぐるみみたいなもので、これとつきあっていくしかしゃーねな、という感じで生きております(もしかしたらこれが、ナルシシズムなのかもしれませんが)。
たとえば、私はうるさくしゃべる人間を苦手としていますが、もしかしたらチョーきれいな人だったら違った反応を返すかもしれません(十分ありえる)。そういう意味で、自分には未知なる領域があると感じているのです。
たぶん、「自分のことを知りたい」という気持ちは、一つには自分を把握し、完全に理解したい、というある種の支配欲求の側面もあるでしょうし、もう一つには私のような常に未知なる存在としてその対象を観察者として眺めたい、という側面もあるでしょう。
台風や地震の性質を理解してれば──たとえその現象を支配下に置くことはできなくても──そのやり過ごし方が研究できるように、自分というのもそれについて知っておくと、起きてくる「自分的反応」にいくらかは対処できるようになってきます。だからこの実験観察は実に「実用的」でもあるのです。
結局これは、私が「セルフスタディーズ」と呼ばれていることの別の表現なのかもしれません。一つの起きている現象として「自分」というものを観察参与すること。そういう自分社会学は、素朴な知の営みですが、少なくとも最後まで飽きることがないという意味ではたいへん魅力的な活動です。