自分の手牌を知る
以下の投稿を読みました。
私はここに、「自分の人生の前提を理解する」という、土台的なイメージを加えたいと思います。ここに並べるものとしてどう表現するのが適切かはわからないのですが、好奇心や支配欲求以前の、「自分」という存在をスタートするのに必要なラインというのがあると思うわけです。「自分を見失う」ということを防ぐためのものと言ったらいいかもしれません。
なるほど、とひざを打ちました。たしかにそういう確認も加えられるでしょう。読みながら麻雀の手牌を思い浮かべました。
麻雀は最初に13牌の手牌が配られたところからゲームがスタートします。プレイヤーはまずその13枚をチェックして、そのゲームの進め方を決めていきます。はやくあがれそうなのか、そうでないのか。攻撃的なのか、守備的なのか。高い手になるのか、そうでないのか。そうした具合を確かめます。
たとえば今トップに立つためにすごく高い点数が必要でも、手配が安い形でしか来てないならばそれはどうしようもありません。せめて2位になれないか、といった別の戦略を考えていくことになります。手牌を無視して進めていくことは無理ゲーなわけです。
もちろん、自分の手牌だけでなく、相手の動向も戦略の策定には必要です。そういうのが絡み合って、複雑なダンスの軌道を描くのが麻雀の面白いところです。
もっとシンプルに、ポーカーで考えてみてもいいでしょう。ポーカーするときに、自分の手札をまったくみないで勝負するのは勇気ではなく蛮勇です。というかそれは、インディアンポーカーというまったく別のゲームになってしまうでしょう。
インディアンポーカーは、自分の手が見えず、しかし相手は自分の手が見えるので、相手の反応を頼りに賭けを行わなければなりません。つまり、他人の動向に強く影響されてしまう、ということです。もちろん、それも含めてどういう戦略をとるのかがインディアンポーカーの面白さではあるのですが、そういう話を取り除けば、のらてつさんがおっしゃっていることが腑に落ちます。
せめてインディアンポーカーな状態は脱して、ポーカーな状態にすること。そのための確認。そんな感じなのかなと思いました。
その意味で、「自分を知らなくても大丈夫」だと思えること自体が、すでに自分の手札を知っていることを示すのかもしれません。でもって、この「知る」は知識の受容ではなく、自分自身の心底の納得を意味しているのでしょう。自分で得心するしかない。そういう性質の事柄なのかなと思います。