"特別なやり方"はどこにでもある
以下の投稿を読みました。
他の場所で何度か書いていますが、私は「日経ビジネスアソシエ」という雑誌の手帳特集がとても好きでした。多分この雑誌についてはこの界隈(?)ならご存知の方が多かろうと思います。あとは他の媒体でほぼ日手帳やモレスキンなどの用例もあちこちで見ました。もうどれをどれで見たのかわからなくなってしまいましたが、本当に多彩な例を目にしました。カラフルで工夫している感満載のものもあれば、黒一色で剛毅木訥な力強さを感じるものもありました。みっちり詰め込むように書いているものもあれば、時々必要が生じた日に必要な分だけ書くというスカスカな手帳もありました。どの例も同じようにわくわくして見ました。
私もあの手の企画は大好きだったので、気持ちはよくわかります。何かが書かれてあるノートや手帳、本が並んでいる本棚、パソコンやその他の物が配置されているデスク。そうしたものの写真を見ただけで上がってくるテンションというのがたしかにあります。あの気持ちは一体なんなのでしょうか。
自分に直接使えそうなものもあれば、ぜんぜん無理そうなものもある。似たことをやっている場合もあれば、想像もしなかったようなものもある。多彩であり、雑多。
もしかしたら、そこに固有の「やり方」が立ち上がっている、ということ自体を私たちは言祝いでいるのかもしれません。実態がうまく把握できない「個性」なるものの痕跡がそこに見出せるのです。人間賛美としての個別のノウハウ。
いささか大げさな話になりつつありますが、たしかにそこに価値があったのだということは間違いありません。そして、そうした価値の復興をこのトンネルChannel含め、さまざまなネットメディアで行おうとしている節が私自身の行動からは感じられます。
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「特別な方法でなくてもいい」と私はよく言いますが、しかしよくよく考えればそれぞれの人はそれぞれの人なりに”特別な方法”を採用しているはずなのです。その人自身にフィットした固有の方法。それは紛れもなく”特別な方法”でしょう。
そうした方法は、万人が真似できるような”洗練された方法”ではないでしょう。「皆さんこれをやってみましょう「とレコメンドできる方法でもないはずです。私たちはついそうしてSophisticatedされた方法を特別なものだと感じてしまいますが、むしろ特別な方法とは個別の知に、あるいはそれぞれの生に宿るものです。そして、その生においてそれぞれが十分な納得感を持って方法を使っているならば、それに勝るものはありません。
だから自分の方法を語るときは、他人のことはあまり気にしなくてもいいのでしょう。それを見て楽しい人がいるのだから、見せるだけで十分価値は生まれえるのです。無理に整えなくても、ごく普通に、日常的にやっていることの中にこそ未発掘の価値は眠っています。
インターネットこそマスでない情報を届けるためのメディアとするならば、まさにそうした情報たちが循環するメディアこそを作ってみたいものです。


