以下の投稿を読んで考えたことのもう一つ。
感情的になると記録が難しくなり、その結果「自分の傾向」に対して別の機会をわざわざ用意して焦点を当て直す必要に迫られることにもなります。精神的ショックや劣等感が記録を難しくさせると感じますが、ショックの方はやむを得ないとして、劣等感については事実に余計な解釈をまとわせることで生まれるものであって、事実を事実としてのみ扱うことを心がければ解消があり得ます。
記録するという行為、あるいは記録というものの性質があるように思います。
まず、日常的に生活が続いているとき、言い換えれば特に問題がないときには、記録が必要だとは感じにくいものです。身体化された技能や知識によって円滑に進むわけですから、わざわざ”外部記憶”を参照しようとは感じないでしょう。
記憶の必要性は、日常性が阻害されるときに強まる。
では、「記録する行為」についてはどうでしょうか。
単純に考えれば、日常性が阻害されているときは記録しにくいものです。心理的、時間的な余裕が持てないことが多いからです。むしろ記録する行為は日常的な方がやりやすいでしょう。
そうなると、なんだかねじれている気がします。
記録の必要性が感じられないときほど記録がやりやすく、記録の必要性が感じられるときほど記録しにくい。
仮にこれを記録のジレンマと呼んだとして、実際のところ日々記録し、必要に応じて有効に利用している人がいるわけですから、その人たちは何かしらでこのジレンマを乗り越えていると考えられます。
それは一体何なのか、というのは一考に値するトピックであるように思います。
日常化してしまうほど記録をとることが「普通」になってしまえば良いなあと思います。