先日、倉下氏が仕事上のツールの一部を公開していた。そこにあった氏が言われるところの「ラフな稿」に、とても興味がひかれる一文があり、私は素直に返信した。
倉下氏も返信してくれた。
ここで少々の疑問を抱いた。それならば、氏が出版に向けて推敲、校正と仕事を進めていくなかで勢いが変化することがあるのだろうか。
「改稿していくと変わっていきます」
納得のいく話ではある。
その後、日暮れどきに車を走らせながら、考えた。
出版や、一般への公開のために紡ぐと
「勢いのある文章」にはならないのだろうか
いや、文章から勢いを感じたことは何度もある。限りなく
では、勢い余った文章は拙いのだろうか?
氏が、ある状況下を意図して、慎重なスタンスであることは当然としても、私が本以外に好きなもの….… 例えば音楽やダンス、放送や舞台。そんな芸術や媒体から感じる「勢い」は、著述や出版に含むことはできないのだろうか。
そもそも「勢い」とは何だろう?
私の狭い視野と少ない語彙で言い換えるなら、勢いとは「突き抜けていく、感覚」のこと。
「スピード感」や ”POWER” と似ている気もする。日常の口語であれば「ガッ!」という感じだ。
そんな私が「勢い」と聞いて思い浮かべるのは、オートバイや自動二輪車と呼ばれる乗り物だ。
私は機械としてはシンプルな車体を好んで所有していたので、スイッチを押すだけでエンジンが始動するマシンではなかった。エンジン横に折り畳まれているアームを伸ばして、右足で蹴っ飛ばしてエンジンを始動、独特の排気音を鳴らして薄紫色の煙につつまれ、右手でアクセルを捻り出発するイメージが記憶に焼き付いている。
そんな私も家庭を持ったり、治りにくい病気と共生することになるなど、オートバイに乗れなくなって久しいが、いまでも「どこかに出かけたい」「あそこに行かなきゃ」と想ったときに、胸に沸き起こるのは、右足でアームをキックしてエンジンを始動させる自分の姿。
私が、オートバイに「勢い」を感じるのはどうしてだろう。
スピード感のある乗り物だから? 排気音に特徴があるから? 四輪車よりも乗り手に高い運転技術を求めるから?
次に、音楽について。一部のジャンルの音楽から「勢い」を感じることは共感をいただけると思う。JazzやRockのムーブメントから感じることは疑いようがないと思う。もちろん、それ以外の音楽ジャンルでもあり得る。
仮に、音楽の群れからRockを抜き出してみよう。私の意図としてはポップスでも演歌でも良いのだが、勢いの感じる音楽の代表として。
興味深いことに、Rockは概ね歌詞と曲が合わさった作品であって、歌詞はそれ単体では詞であって文章である。
それならば、勢いというものは作曲から生じるのだろうか? いや、歌詞を読むだけで勢いを感じさせるアーティストは少なくはない。
音楽のことに紙面を割いたが、私が感じる「勢いのある音楽」の傾向のひとつが、ガレージバンドと呼ばれる、大手レコード会社に契約する前のアーティストが、チープな機材で録音したような音楽だったりする。
そこを思うと、大きなルールに飲まれずにいる者が、勢いを持ち続けるのだろうか? とも思う。
同じ「書物」の形態でも、自費出版の同人誌であれば、勢いは保つのだろうか。
私の感覚では、同じ書物でも、漫画ジャンルは勢いがある。さらに漫画同人誌は、商業出版の漫画を突き抜けているモノがあるように思える。
それは、媒体の持つ性格なのか、ジャンルが何十年もかけて身につけた個性なのか、浅薄な私には量れなく、結びの文も無く申し訳ないが、本投稿には示しておきたかったところである。
文章・著述についての勢いについて、私感を綴って終わりにしよう。
「勢いのある文章ってどんなだろう?」と独り考えて、想ったのは村上龍による小説『コインロッカー・ベイビーズ』。
ただし言うまでもなく、村上氏の文章は緻密で美しく、「勢いがある」と、私が感じるのはストーリーや舞台設定の方となる。
先にRockのことを述べたが、活躍中の著名な文学者で、若い頃はパンク歌手だったという町田康の文章も勢いがあるように感じるが、私の場合パンク歌手としての町田氏のファンだったので、活字を追っていても、頭の中で小さな音で歌声が流れているような感じで、少し感覚がおかしいのだと思う。
もし、音楽に歪んだギターや強いリズムが入れば勢いがあるように感じるとしたら、文章も、例えば科学論文を、新聞の見出しを手で破いて一字一字貼った脅迫状みたいなビジュアルにすれば勢いがでるのかも知れない。もちろん、それは私の思う勢いとは違うけど。
読者諸氏が、本稿に最後までお付き合いいただけたならば、それは感謝の極みであると申しあげる。
何の結論もないけれど、最後に、私が感じた「勢い」について示し、結びとする。