ハックっぽい視点
以下の投稿を読みました。
と、いまはわかったようなことを書き綴っているものの、冒頭に書いたように僕はすぐ自己否定に走りがちなので、未来の自分に向けてこの文章を残しておこうと思う。
という部分が面白かったです。
自己否定に走りがちな認識
たとえば、自己否定に走りがちな人がいるとして、その人が自分は自己否定に走りがちだと気がついたとしましょう。そのとき、まっさきに出てくる反応で一番可能性が高いのが、
「自分は自己否定をしがちだ。なんてダメなヤツなんだ」
でしょう。非常にわかりやすいパターンですが、袋小路であることは間違いありません。
何かを変えるためには、その対象を認識することが必要で、この場合は「自己否定しがちである」という認識がそれなのですが、そのままだと「自己否定しがち」という自分の傾向に乗っかってしまってさらに陰鬱な気分が増えるだけです。
だったらどうするのかというと、「未来の自分に向けてこの文章を残しておこう」といった方策です。
それを織り込んでおく
つまり、自分はどこかの時点で自己否定なことを考えてしまうだろう。そのときのために、何かしら役立つものを残しておく、という方策。ここには、たくさんの機微が働いています。
まず、否認していないことが重要です。「自分は自己否定するような人間ではない」という認識では、対処する発想が生まれてこないのだから、これは必須です。
さらに、認識したからといって、それを完全に抑制できるわけではない、という自らの限界も理解されています。ときに、問題を理解すればその対処など意志の力で簡単にできる、みたいな発想があるわけですが、それは弱さに見えるマッチョな思想です。意志で抑えられないとわかっているから、何かしらの「手を打つ」わけです。
一番重要なのは、そのようにして打った手で何かしら変化の可能性がある、と期待しているところです。つまり、自分の傾向は一つの性質として定着していて、意思の力では制御できないばかりか、何をやっても対処は不可能、という強度まで行ってしまうと、そもそも対処しようという気持ちにはならないでしょう。
これはかなり大切なポイントで、たしかにその人が長く続けてきたことによって「身に染みついた」反応というのはあって、それは傾向とは呼べるのですが、先天的で絶対に改変不可能な性質ではないわけです。
実際、気長に対処を続けていくうちに、一番最初の反応が変わってくることは十分ありえます(脳は可塑性を持つのです)。魂の一番深い部分ですら、それに相応しい時間をかければ、かえることすらできてしまうでしょう(ただし寿命があるので、時間的に不可能なものは多いかと思います)。
僕が「ハックっぽい」と思うようなものは、こうした工夫です。
問題を無いものとして扱うわけではなく、簡単に解決できるものとしても扱わない。だからといって、絶対に解決できないものとしても扱わない。
そのような物の見方とそれに裏打ちされたアプローチを、「ハック」と呼んでいきたいものです。