以下の記事を読みました。
いくつか思ったことを。
妙なことを書き散らかしたけど、ノウハウに何を求めるのか、ということをまとめると、知的好奇心の刺激というところだろうか。
なんかノウハウがもたらすものの本質とはずれてるというか、ノウハウの提供者の思いを裏切って、娯楽として消費していますと言い放っていて、それでいいのか?
まず、ノウハウ本の著者としていうと、娯楽として消費されているならそれはそれでOKという感じがします。もっと言うと、ノウハウに知的好奇心の刺激を求めていて、それが充足されているならそれ以上のことはないでしょう。
だから「それでいいのか?」という疑問は、それでいいのだと思います。
僕が気になるのは、ノウハウに人生の向上を求めているのに知的好奇心の刺激しか得られていない、というような目的と結果の不一致です。そうなってしまっていては残念ですが、「楽しみで読む」ことが目的で、実際に楽しめているならそれ以上のことはないでしょう。
こういう話で一般的な規範を求めてもあまり仕方がなく、自分がそれで充足しているならぜんぜんOKじゃないでしょうか。別の言い方をすれば、そこにある「本質」は人それぞれ違っている、ということです。
で、提供者の思いを裏切るとかもどうでもよい話というか、そもそも提供者がどんな思いを抱いているのかは、こちらからは推し量れないわけで、それをジャッジの基準にするのはちょっと勇み足でしょう。
さらに踏み込んで言うと、「ノウハウをちょっと試しては挫折して、また別のノウハウをほしがる」ということが繰り返されやすいように最近のノウハウ話は提供されているように感じます。あるいは情報環境そのものがそうした移り変わりに最適化されているというか。一つのことに腰を落ち着けず、日々新しい情報が巡っている中では、ノウハウのメリーゴーランドも起こりやすいでしょう。
そうなると、一つのノウハウに取り掛かったらその他の情報をまったく遮断するぞ、的な”絶対的”なアプローチで抗いたくなりますが、情報環境が移り変わりに最適化されている中では、滝を逆向きに登るくらいの難しさがあるように思います。
となれば、話を逆に捉え直して、メリーゴーランド的に周期的にある技法をたまに思い出して使うことで「復習」するというやり方がいいのかもしれません。たまにGTDをやり直してみる。たまにポモドーロ・テクニックをやってみる。そのようなやり直しを繰り返し続けることで、長いスパンでみたときに「一つのことに長期的に取り組んでいる」という環境が作れるかもしれません。
だた、そうした環境をうまく活かすには、何かに取り組むたびにそのことについてノートやら記事やらにまとめておくのがよいでしょう。たとえ記事を書いた翌週にそのやり方をやめてしまったとしても、そうして書き残したという経験はたしかに脳にネットワークを形成してくれると予想します。
ありがとうございます!
まずは、とりとめのないことを書いてみてよかったなぁと思いました。
これは更なるアンサーを書きたくなる内容です。