考え事をする4パターン(倉下)
自分はどうやって考え事を進めているのかと考えてみると、大きく4つのパターンがありそうだな、と気がつきました。
そらで
一つ目は「そら」です。つまり完全に頭の中だけの思索。今回のように、明確に考える問いが定まっているときなどに、この「そら」で考えるが起きやすいです。
実際私はラーメンを食べながらこの記事の冒頭部分あたりを「そら」で考えていました。面白いのは、ほとんど一字一句違えることなく、このような文章展開で「考えて」いたことです。
つまり、理論的な操作ではなく、文章の展開によって「考える」ことをしていました。
文に書く
ここで書いている文章は、そうして「そら」で考えたことの具体化となるわけですが、完全に頭の中をそのまま移しているわけではありません。実際、上記の「そら」の思考は冒頭の数行部分だけで、それ以降は白紙でした。そんなに長い文章展開を維持しておけるほど私の短期記憶は優れていません。
文の展開で「考える」ということは同一ですが、文を書き表すことでそれよりもはるかに長い思考を展開してくことができます。言い換えれば「それ」で考えただけではうまく着地できないとき、こうして「文に書く」というアクションが立ち現れます。
で、こうしたアクションでは手書きよりもタイピングが好みです。文を展開して考えているので、その展開ができるだけスムーズな方が快適だからです。
図に書く
上の二つが、私の「考える」の大部分を占めているわけですが、それ以外の「考える」もあります。その一つが「図に書く」です。
これは表現が難しいです。別にイラスト的なものを駆使しているというわけではありません。書かれるものの大半はやっぱり言葉です。でも、「文」ではない。単語やフレーズがあり、それが矢印で接合されているものが、私の中での「図」です。
こういう思考が要請されるのは、考えたいテーマはなんとなくあるけども、具体的な問いの形になっていないときです。そういうときは、上記のようなスタイルで「考える」ことが多いです。感覚的に言えば「探りを入れる」ようなもの。
この場合は、テキストの即座の入力性よりも、要素同士の関係性を直感的に(頭に思い描いたままに)描き出せる方がフィットするので手書きをすることが多いです。あるいはiPadのGoog Notesなど。
誰かに話す
私の中でもっとも頻度が小さいのがこの「考える」です。私は個人で仕事をしていますし、妻に考え事を話すこともないので、基本的にはほとんど起こりません。せいぜい二つのポッドキャスト(うちあわせCast、ブックカタリスト)だけです。
というよりも、何もしなければずっと自分ひとりだけで(自分の脳だけで)考えてしまう癖があり、それはどうにも問題が多いぞと感じていたからこそ、ポッドキャストを始めたという部分があるかもしれません。
なんにせよ、誰かに話すことはエキサイティングです。一方では、自分の中にあった漠然としたイメージを一つの言葉に表すことを促す力があり、また「その人に説明しようとする」中で、適切な比喩が立ち上がることも起こります。自分ひとりだけだと、発想の幅が限定されてしまうので、そこを変える力が存外に大きいものです。
さらに、相手からのレスポンスによって自分の思考が思わぬ展開も見せることもあります。「考えもつかなかった」という観点が得られるのです。
こういう感覚は、言葉で説明すればある程度理解はされると思いますが、その”効能”を体感するには実際にやってみるしかありません。本当に価値がある行為だと思います。
もちろん、相手の時間を使っているわけですから、相応の礼儀が求められることは言うまでもありません。
さいごに
というわけで、私の日常的な「考える」は、そらで考えるか、文を書いて考えるで成り立っています。それだけでも日常は十分に回るかもしれませんが、そうでない事態もときどき起こるので、そうしたときには図を用いたりするわけです。
で、誰かに話すのは、上記三つと似ていながらも、質的に異なる営みです。かつての知識人たちが、たまに集い、会話を交わしていたのも頷けます。