自分で書いた文章を指針とする
今回は自分で書いた文章を指針とすることについて考えてみたいと思います。
きっかけは1ヶ月ほど前のGo Fujitaさんのツイートでした。
驚きました。実際に「はぁー」というよくわからない声も出たと思います。その驚きは理解できないからではなく、まったく発想になかったために生じた驚きでした。それもそのはずで、私はそもそもトンネルChannelに参加するまで自分の考えを文章してこなかったので、自身のブログ記事(=自分で書いた文章)をものさし(この投稿では指針と呼ぶことにします)にするという発想に結構な衝撃を受けたのです。
とはいえ、少し落ち着いて考えてみると理解できないというものではありません。自分で書いたものを指針にするというのはなんとなくわかります。でも、そうしたときの指針は短く書いたものというイメージがありました。たとえば、社是とかスローガンとかミッションステートメントとかクレドとか、そういった言葉で表現されるもののイメージです。ラグビーでいうところの「One for all, All for one」のようなものだったり、サービス企業による「すべてのお客様に感動を!」みたいなやつです(そうしたスローガンが実際にあるのかは知りません)。そしてそれらはたまたま短いわけではなく、短い方がいいと考えられているイメージがあります。
指針を頼りにするときは大抵の場合何かしら悩んでいたり、困っていたりすることが多いでしょうから、短い指針はその悩みや困りごとを解決に導くパワーがあるのだと思います。
さらに、指針を短くする理由の1つには、皆が同じものを覚える必要があるからという理由があるでしょう。短くすれば多くの人が覚えられる。というか長いと覚えていられない。チームや企業のように多くの人が一緒に同じ方向に進むための指針では短いことは必要な条件なのだと思います。
翻って個人が活動する際には指針はどんなものがいいのか。もちろん、短い指針が役に立つ場面は多そうです。あらかじめ定めておいた指針を参照すれば悩まなくていい感じがします。でも、残念ながら私には「これだ!」と思える短くていい感じの指針はありませんし、そもそも迷ったときは、じっくり悩んだりゆっくり考えてもいいはずです。走りながら考えるのではなく、一度立ち止まってから考えようとするときには文章を指針とすることが有効なのだろうと思いました。
文章には細かなニュアンスが詰まっています。知的生産に興味がある人のエッセイが読みたいという投稿で、エッセイを要約しようとするときに省略してしまう部分こそ大事かもしれないという主旨のことを書きましたが、指針についても同じかもしれません。
人を動かすような短い強力なメッセージを作り上げるときにこぼれ落ちてしまう繊細なニュアンスこそが必要なときもあるはずです。そのときに細かなニュアンスを含んだ指針としての文章が役に立つのかもしれません。
しかも、そのときの文章は自分で書いたものだとより良い場合がありそうです。ニュアンスは文章を書いた本人が一番わかりますし、自分の文章を読めばその文章を書いたときのことも思い出されることもあるでしょう。
とすると、その文章は日記とかでもいいのだと思います。だから、人によっては人生に迷ったときには必ず2016年6月17日の日記を読むということもあるかもしれません。
正直私はまだ文章を書き始めたばかりなので、指針にできるような自分の文章はありません。でも、自分が書いた文章が未来の自分の指針になるかもしれないという予感はあります。そのことを考えると文章を書き続けてみることがちょっと楽しみになります。
今回の話は指針は長いものと短いもののどちらがいいという話ではありません。おそらく、指針とする際の役割が違うのでしょう。強力に駆動して欲しいときは短いフレーズの方がいいかもしれないし、じっくり考えたいのであれば長い文章がいいかもしれない。併用したっていいわけなので、そのときに大事にしたいことに合わせたものを使う。それでいいのだと思います。
私は今回、自分の文章を指針とするという新たな武器(あるいはお守り?)を手に入れた感じがしています。このことは文章を書いてきた人にとっては当たり前かもしれませんが、私にとっては良い発見でした。