「ひとりで考えること」と「みんなで考えること」
だいぶ、ひどいニュースを見かけました。重要なニュースではありますが、リアルタイムでいろいろ目にすると混乱が深まるので、いったんタイムラインを距離を置くために、何か別のことを考えてみます。
さて、何がいいでしょうか。
今朝方考えていたのは「ひとりで考えること」と「みんなで考えること」。基本的に思索というのはひとりでできる行為です。ひとりだからこそできる広がり、みたいなものは間違いなくあるでしょう。
一方で、ひとりではたどり着けない場所も間違いなくあります。人間の認知はそこまで万能ではありません。まったく同じ対象について考えていても、それが同じ脳であっても、他の人と一緒に考えることで異なる考えが出てくることは珍しくありません。
これは別に「討論しよう」とか「アイデアを持ち寄ろう」とか、そういう話ではないのです。単に「他の人と考える」という行為をする、というだけです。それだけでも、状況が変わってくるのです。
ひとりで考えているときは、自分の知的フィールドのごく狭い部分を探索しているにすぎない、ということが、そうして「他の人と考える」ことで気がつけます。自分の盲点は、自分(だけ)では気がつけないのです(だから盲点と呼ばれるのです)。
より広い領土で考えることができてはじめて、あああのときの自分の考えはごく一部でしかなかったんだな、と気がつけます。
ここで言う「ひとり」は、単独の人間だけを指しているわけではありません。それがグループであっても、考えの同質性が高ければ「ひとり」と勘定できるでしょう。そうしたときに、それとは異なる考えに触れること。まったく異質である必要もなく、少し異なるくらいでもいいのです。そういう「他の人」の考えに触れることで、思考のフィールドが広がっていきます。
そのような「ひとり」と「他の人」の集合体が「みんな」です。
「他の人」を排除するところに「みんな」はありません。これはとても大切なことだと思います。

